2008年9月15日月曜日
今日の想い 11
兄弟であればその認識程度の差異はあるとしても、創造主である生きた神様を信じている。しかしながら信じてはいるもののはっきりと捉えているか、即ち生きて自分に働く神様として生活の中に実感として捉えているかとなると非常に曖昧な認識でしかない。祈りに於いて天の御父様と声をかける時、未だ自分にとって曖昧な親なる神様を探し、尋ね、近寄ろうとする内的なる姿勢を能動的に起こしながら次なる言葉、次なる閃きに耳を傾けようとする。このような祈り、このような祈りに準じた生活を積み重ねる事で神様に近づく事は出来る。しかし祈るにしても祈る姿勢が正しく行われていない限り、祈っている風ではあっても祈りとは言えない。この能動的と言う言葉がみそで、本当に魂の要求を持ってその上での祈りであるかと問わなければならない。人間は自分が落ち着く環境を整えようとし、その環境に住まう。それは外的環境以上に内的な環境をそのように整える。そこが落ち着く処であって、そこから基準の高い位置に向かおうが低い下に向かおうが、とにかく自分の基準に合った内的霊的位置にしがみ付き離れようとはしない。自分の魂に神様に向かう力を植えつけられてはいるものの、それよりも遥かに今の基準や位置にしがみ付く力のほうが強い。その力を押さえつけ神様へ向かう力のベクトルを強くする為には今の自分を否定し闘うことが要求される。だから本当の祈りは闘いである。自分という宇宙の中で、善なる霊と悪なる霊が熾烈な戦いを繰り広げる。それを見ずして祈ったとは言えない。そういった事こそが真の現実でありこの世界の物質的感覚的遣り取りは影のようなものだ。祝福家庭が有難いのは真の父母を戴いていると言う事だ。生きた神様をこの地上に戴いている。御父母様に侍る事で祈りに勝る内的霊的成長を受け取る。祈りにのみ殉ずれば途方も無い内的路程を旅する必要にありながら、御父母様に侍る事で高速路線を走る事ができる。開闢時代は更にワープ出来るほどに高次の霊界が降りている。
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