2008年9月28日日曜日

今日の想い 13

天使長ルーシェルの誘惑がなかったら、人類始祖の堕落がなかったら、今のような人間の在り方は無かったろう。今ある人間としての姿や在り様は堕落したからこのような在り様をしているのであり、堕落の結果としての人間であって本来神様が創造理想としての在り様とは違うはずだ。宗教に関する事柄はあくまで内的な内容であって、外的なこの世界、或いは人間の外的在り様は神の創造理想と寸分違うことは無いと認識する者の方が多数とは思うが、それは堕落人間の思い込みに過ぎない。手足が複数あるとか火星人として描かれた蛸が立ち上がった様子であるとかを想像して、馬鹿馬鹿しいと思うのかもしれないが、そういう発想自体が堕落人間的発想だ。今の我々の感性で想像できる在り様とは全く違う在り様をしている。しかし言えることはルーシェルの血が人類始祖に混入された以上、今の人間の在り様にルーシェル的な在り様が明らかに組み込まれているはずだ。目だろうが耳だろうが本来の創造理想の在り方とは違うルーシェル的在り方をしていると思う。神の様に賢くなると言うルーシェルの誘い文句も、明らかに今まで隠されていた視界が開け、届かなかった音階が耳に入ってきたのだろう。我々が五感を通して受け取るプロセスで、器官自体も受け取る感覚もルーシェル的なものに違いない。堕落によって勝ち取った似非感覚に違いない。だから視覚を通して受け取ったものも他の感覚も、そのまま鵜呑みにすべきではない。賢くなりたいとの思いからアダムとエバは認識を得ることを早まった。早まったが故にその認識は欠落的なルーシェル的認識感覚となった。我々の目はルーシェルの目であって神様の目ではない。我々の感覚はルーシェルの感覚で神様の感覚ではない。だから自己否定、全てを否定するところから多くの宗教は出発したし、我々の信仰生活も自己否定からの出発だった。姦淫の思いで女を見るならその目を抜き取り、罪を犯す右手があるならそれを切り落とす。その言葉には悪魔の現れを呈した肉塊に対する恨みを宿している。悪魔の血、悪魔の肉体の中に魂は組み入れられてしまった。魂と肉体の分離が可能であるなら、そしてルーシェルら一族への完全抹殺が可能であるなら、人類という肉体の瓦礫はとっくに焼き滅ぼされていただろう。しかし人間は矛盾性を孕んだ存在であって愛の道理に反する事も平気で行うが、神自身が矛盾性を孕む存在とはなり得ない。妻が犯され娘が犯されるのを見ているしかなかった。それ故に堕落の事件以降、最も悲しみ最も苦しみボロボロになりながら人類全ての重荷を背負ってきたのは神御自身である。不自由な子供を見る親の思いが根底にある。今の今まで許して許して許し続けてきた。しかし親であればこその怒りも持ち合わせ鉄槌を下す時も又近づいている。怒りの封印は必ず解かれる。

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