2008年9月23日火曜日

自己愛家族愛

誰もが自分が一番かわいいだろうし護りたい。この身体に閉じ込められた自分という存在に他のものが侵入するのを許さない。頑強な塀を張り巡らし自分自身を護りながら、様々な想いへの執着を益々強くする。一つの想いに執着すればするほど、周りのものは見え難くなる。駄々をこねて自分が手にした玩具を放さない子に、どんな交換条件を持ってしても駄目なように、誰が説得しようとも自分の想いを捨て去る事はできない。執着するとは、自分のものにした、自分が信じる愛に対する執着を言う。自己中心と言うけれど、自分に対する愛と言う、それはそれで愛には違いない。しかしそれに執着すればより大きな愛へ向かう触手は芽を出さない。愛の器は小さいままだ。持ち合わせの愛を羽交い絞めしている。愛の大きさを見ようとすれば、羽交い絞めしているその手をほどき解き放つ必要がある。物心付くまではひたすら受け続ける姿勢を崩す事は無いが、ある年齢に達すると与える事に目覚めてくる。与えるには、与えて足る容量が必要になる。より多くを与えればより多くを受ける事を学ぶ。逃すまいとられまいとして愛の器のふたを閉めたままだと、出す事もないが新たに入る事も無い。愛は流れてこその愛だ。空気も水もそして光も滞るべきものではない。愛も滞るべきものではない。自分の愛の器は広大深遠なる宇宙の愛の流れの経由地として組み入れることで、掛け流しで必要以上の愛が流れ入り、ふんだんに与える事ができる。執着すればするほど宇宙の流れから遠ざかっていく。妻や子供への愛と信じて言動や行動に出るのだけれど、そこに家族愛に対する執着はないか。愛と信じて妻子の為と信じて関わってきた事に、執着心から必要以上の押し付け愛が夫婦間家族間に滞り、気付いた時には愛と呼べないものに形を変えていないか。家庭が単位ではあるけれど、愛がその場に滞っているのであれば形を変えた自己中心主義とならざるを得ない。

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