2008年9月8日月曜日

今日の想い 10

堕落の今生に翻弄されながら、それを当然のように良しとする自分がいる。ある時は、ぬるま湯に放たれた蛙のように、偽りの波間に漂い、やがてじわじわと煮え湯になっていくのさえどうでもよく、居心地の良さに身を委ねる。這い出せば抜け出るものを、怠惰というぬるま湯に浸かり微動だにしない。いっさいは他人事、やがてひりひりと赤く腫れ上がる自分の事ですら他人事。ある時は血気に燃え、もたげた鎌首を見事に切られ、身をくねらす蛇のように、赤黒い血を搾り出し、染まった身を躍らせる。もはや傷つき傷つけられる痛みの感覚は消えうせ、いともたやすくむき出しの感情を撒き散らす。言葉を操る犬畜生に成り下がり、口から鋭い棘を吐く。偽りの自分が顔を出す時、立ち上がって天を望み、拝することを忘れている。地を這い回る事で満足する。塵芥を喰らい腹を膨らませる。糞尿を撒き散らすように、そこら中に蔑みの言葉を吐き捨てる。あらゆる醜いものを自分の中に見ながらも、僅かに見え隠れする本然の性品に出会う時がある。それは多くの場合、苦境の只中で顔を出す。打ちひしがれ、もはや立ち上がる力も尽きた状況で現れる。全てを甘受する覚悟が出来た時、謙虚な自分がそこにあり、感謝する自分がそこにある。これが自分の本当の姿だと発見する自分がおり、そういう自分が愛おしく思える自分がいる。その感覚を絶対に忘れない事だ。そしてその感覚を育てていく事だ。それは聖人達が開拓し、後に歩む者に分霊として戴いた一つの神霊だ。この感謝の想いが何処から来たのだろうと尋ねる時、霊なる感性を鋭くすれば観音様であったり菩薩様であったりする。観音意識、菩薩意識として自分の中で芽を出す。またこの許しの想いが何処から来たのだろうと尋ねる時、惜しみなく与える愛に対して死を突きつけた人類、それさえも許したイエス様であったりする。自分が開拓した高次の感覚であるようであっても実のところそういった聖人達の分霊として戴いている。真の御父母様の開拓された領域は更に遥かな高次元に渡る。言葉とすれば真の愛に集約されるみ言葉の一つ一つではあるが、それは我々がそう思っている真の愛とは想像もつかない高い意識帯に位置する。御父母様に侍って侍って侍りぬいて、そのみ言葉の理解できる領域に行き着く事ができる。それは言いようによっては、より侍る戦いであり、であれば天国は激しく襲われている。

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