2008年9月8日月曜日

敢えて非難を浴びようと思う。罪を犯す前は罪を犯すなという言葉に拘束力は無い。近寄らなければ済むものを、しかし近寄らなければ罪の意味さえわからないと近寄る。しかし本人が罪を犯してしまったという自覚の後は、後悔の念が責め続ける。呵責に苛まされ、のた打ち回る。逃げ惑おうとも隠れる場所は何処にも無い。罪を知らない者に、罪に近寄り香りを嗅げと囁く存在がいる。その存在の囁きを自分自身の思いから来るものと勘違いし、抗うことは不可能とその囁きに心を許す。繰り広げる人間模様の背後で、肉心に働きかけ魂に働きかける意識下の存在がいる。その存在の駆け引きが罪の行為の前には悪魔が先行し後追いで神が働く。エバが天使長に心を許すその現場で、神様は手を出す事もできなければ声をかける事もできない。人類始祖から人間は自由意志を与えられ、自由意志圏内は神も不可侵の領域だ。堕落する事を人類は自由意志で選んだ。神から遠ざかることを自由意志で選んだ。自分の中に神に属するものと悪魔に属するものとを内包する、矛盾存在であることを選んだ。一度はそう望んだものの人類の良心は自分が本来神の子であることをどのようにも否定できない。神様は人類の良心故に救援摂理を進めてこられた。人間と名の付く者は全て矛盾存在だ。アダムとエバを始祖とする矛盾存在だ。この肉体で罪を犯そうが犯すまいが、罪は内包している。間違いを犯さずして罪意識の無いものより、罪を犯して罪意識がある方が、より救いを求める。矛盾性という神と悪魔の戦いの現場が人間ひとりひとりでもある。一方を神が取れば一方を悪魔が取る。悪魔が罪を犯させる肉体をとれば後悔の念に苛む心を神がとる。神が間違いを犯さない肉体を取れば罪意識のない傲慢な心を悪魔が取る。外的表面的判断のみでひとりひとりの救援摂理を見ることはできない。意識下に於ける熾烈な霊肉の駆け引きが為されている。無知と自覚の無さで罪にまみれた人生はそういった霊肉の駆け引きに翻弄されている。その認識を得るなら、個人的勝手な判断で目の前の千鳥足の人物を裁く事は、どんな罪よりも重い。その人物を悪魔にくれてやったが為、自分がみ旨に歩めるのだと認識すべきだ。祝福を得たことで満足し、自分や家庭が再堕落しないことのみが関心事で、他の誰がどんな罪を犯そうが他の兄弟姉妹が信仰を捨てようが何の感情も無いとするなら、信仰が弱い自分を自覚してひっそりと生活する兄弟の何倍も責められて当然だ。与えられた祝福を祝福として頂く態度は、人類皆が祝福を受けてこそ初めて自分の祝福も祝福足り得るとの認識から出発すべきだ。祝福を頂き喜ぶ背後で、条件の無い自分が祝福を受けたが故に、悪魔に翻弄される多くの可愛そうなものたちが犠牲になっているかも知れない。明らかなのは御父母様が犠牲を払われた代価であるということ。複雑極まりない多次元復帰摂理の、ほんの一部分しか見る事はできない。自分の拙い判断で測れるほど本質は単純ではない。

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