2008年9月14日日曜日
危機感
いつも危機感を持って次の一手を打つ。経営していく上で不安材料はあちこちに見られる。今の状況を見ると、材料コストは下がる気配はないしさすがのアメリカも消費意欲に欠けている。悪くはなっても良くなる事は無い。これを見越して低価格業態を進めていれば抜け出していたかもしれない。薄々わかっていたがいつどのタイミングで、という事になると今まで出来なかったのはそれなりの理由がある。危機感と言うけれど、後になってあの時こうしておけばと思うのが常で、もし手掛けていたとしてもそれに対するコストなり上手くいっている現状に対するシワ寄せなりはある。不安材料に振り回されていて腰の据わった経営など出来ない。環境や状況は常に変わるけれどそれに振り回されるようでは真の事業とは言えないだろう。訳あって従業員数名を解雇することになった。別に何か責めるべき事が彼らにあった訳ではない。責任者としての危機感がそうさせた。文句も言わず私の言葉に従い、他のどの従業員よりも貢献してくれた。しかしながら切らざるを得ない。心を鬼にして解雇説明をした。頷きながら、今まで働く事が出来た感謝を彼らは口にした。心ならずもこうせざるを得なかった事を責任者として謝罪し感謝を述べたが、言葉はそれで途切れてしまった。責任者としての不甲斐なさに心が折れた。申し訳ない思いがあるにせよ、自分が今やっていることは愛のある行動ではない。せめて通告することで負った傷の生々しさを、魂に焼き付けて置くことが彼らへの礼儀だろう。この国でビジネスをやる以上、この国の規則に従わざるを得ない。危機感と言うとビジネス的だが、ようするに恐怖感なのだろう。この会社、この店を守るためと言うけれどその中で安住する自分を守る意識が根底にある。この身が危ういという恐怖感を見事に隠しながら会社に顔を向けている風を装う。責任者は会社に対して従業員に対してそして客に対して、為に生きるという愛が根底にあるのかそれとも自己保身なのか、自分が問わない限り誰も問わない。いつもその問いを自分自身に投げかける処から、本物の経営者は出発する。
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