2008年9月10日水曜日

知性文化

人類歴史を外的にのみ観察するなら、近代に於ける急速的科学発達に見るように、知性の深みに向かって発展してきた。人間は精神力を内的霊的な探求に使ってきた何倍をも、外的知性の探求に費やしてきた。天使長ルーシェルがエバを誘惑したとき、エバは天使長の知性に惹かれている。取って食べれば死ぬとの忠告を与えられながら、死を超えて天使長の横的愛に魂を任せたエバは、親なる神の本然の愛を捨てて、創造物に過ぎない天使長の、知性に溢れる偽りの愛を選んだ。あくまでそれは偽りであって愛に似て愛にあらざるものだ。下心を持って愛に偽装されたものに惹かれた。偽装する為に用いられたものこそ天使長の知性だ。創造物の中で右に出るものの無い天使長随一の知性で、愛以上の愛らしさを演じ作り上げた。結果として人類は、愛を取らずに愛を装う知性を選んだ。愛こそが第一義でその為の知性であるべきものを、知性を第一義としてしまい愛はそれに色をつける程の付けたしにおとしめてしまった。この堕落世界は知性文化で花開いている。個人にしろ社会にしろ愛することに精神を使おうとはしない。より知性を磨くことに殆どの活力を費やす。学校で愛する訓練はしないし社会でも知識と論理に長けるものが跋扈する。ノアの時代以降、人類は霊的感性を封印されているから知性は外的物質的な方向を取らざるを得ない。やがて人間はより知性を求める物質の奴隷と化す。天使長に似るべく賢さは一級の蛇であり、自己保全と弁護に如何様にも頭を捻くり、いくらでも言葉を並べる。心の不在と愛の無さを屁理屈で覆い隠す。人格没落であり人間失格でありながら本人の頭にはその言葉は意味不明だ。サタン文化が最高に花開いた今、人類は岐路に立たされひとりひとりの選択が求められている。本然の愛に方向を取るのか、それとも更なる知性を追い求めるのか。至極シンプルに言うなら、愛なのか金なのか、み旨なのかビジネスなのか、心なのか頭なのか、そして羊なのか山羊なのか。

0 件のコメント: