2008年9月6日土曜日

ビジネス復帰

我々は経済活動を活動の主体と捉え、今日まで歩んできた。成約聖徒としての事業活動の在り方と、この世に於ける一般的事業活動との違いは何だろうか。この世のビジネスに追いつけ追い越せとの想いで今日まで駆け抜けてきたが、それが天の願いに応える我々の歩みと言えるのだろうか。摂理歴史を見れば、いつもサタンが先行する形、神側はそれを追う形で歴史は流れてきた。神様がつくろうとなさるものと同じ型をサタンは神様に先立つ形でつくってきた。結果的に人類歴史は原理型の非原理世界を形成してきた。であれば今の経済のあり方も原理型の非原理経済体制と言える。本然の経済体制のあり方とはどういうものかと問うときに、経済体制自体は外見上は本然のそれと何ら変わりは無いのだろう。しかし外的体制は変わらないとしてもそれを動かす主管者が変われば全く違うものとなる。悪魔が住まう館が神に取って変わるとき、その館は神の館となる。その時、前の館の在り様と後の館の在り様は全く違うものとなる。その違いを認識できない者は徹底した唯物論者だ。結果としてのビジネスの在り方だけを観察するのでなく、主管者が変わる、或いは主管者の意識が変わることを通して、ビジネスの在り方がどういう変容を為していくかを見る必要がある。それは五感を超えた感性で捉えることであり、霊肉感性併せてビジネスを捉えるものこそが本質の経済を把握することができる。復帰するという言葉がある。万物復帰であるとか経済復帰であるとか、無知な我々は小銭を作る隠語のような使い方をしてきた節があるが、復帰という言葉は実に重い言葉だ。サタンの手の中にある所有(権)を神の側に移す(奪われたものを奪い取る)。それが復帰という意味だ。伝道であれ経済活動であれ、人を復帰する或いは万物を復帰する等のように、外的には所有権を復帰する歩みを為してきた。外的にはそうであるけれど外的に復帰された内容は結果であって、その背後に復帰の為の熾烈な内的霊的闘争が必ず繰り広げられてきた。複雑極まりない内的復帰心情復帰が為されてきた。御父様が不動産であれビジネスであれ形のある物であれ、一度神側に所有権を得たものは死んでも放さないという執念は、ただ外的判断からそのような覚悟が為されるのでなく、背後の熾烈な復帰闘争の結果としての所有権を内的霊的に見ればこそ、そのような態度を取らざるを得ない。そういった判断材料を見ながら我々はどうビジネスに携わっていくべきか、主管者としてどういう内的霊的見地に立てば天の願いに応えるビジネスの在り方となるのか、よくよく祈り考える必要がある。売り上げを上げることが復帰と言えるのか、利益を上げれば復帰なのか、献金すればそうなのか天の願いに即した経営哲学が我々の中に培われ、叡智として蓄積されるのでなければ、汗し涙して歩んできた内的意味は消え失せる。

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