2008年9月16日火曜日

ホームレス

メインストリートを走れば、交差点の中ほどに、ホームレス風を装い段ボール紙の端切れを両手で抱えて立っている人をあちこちで見かける。GODBLESSYOU祝福がありますように、古茶けて無造作に切り取られた紙きれに、フェルトペンで書かれた言葉を目にして、心を動かす人はそうはいないだろう。赤信号で仕方なく停車せざるを得ない人々は、前方から近寄り面と向かって対さなければならないバツの悪さに、ひたすら視線を避けようと不自然に固まっている。滅多に小銭を渡すこともないが、それでも何度か手渡したことがある。物乞いとは違うが自分も募金活動には参加したことがある。風雨に晒されながら通り過ぎる人の波に声をかけ続けることの大変さはよく分かっている。普通は、当人に気付きながらも敢えて人の流れに逆らうことはない。目が合ってもそのまま通り過ぎる。たまに人ごみから這い出て来て、声をかけてくれたり募金箱に入れてくれる人がいて、お釈迦様にでも出会ったような嬉しい気持ちになったりもした。車を走らせ、赤信号で止まる毎に、力無くたたずむ景色に出会うとそんな昔を思い出す。その都度観察していると、いろんなタイプがいておもしろい。装いは小汚くまとめそれ風ではあるが履いている靴が妙に綺麗だったり、何処で設えたのか立派なボードにカラー刷りの物乞いトークを綺麗な書体でまとめていたり、笑顔を満面に湛えながら運転手一人一人に挨拶をするツワモノもいたりで人間様々、ホームレスも様々だ。先日いつもの通りを運転しながら、いつもの上背のあるホームレスが数ブロック先に立っているのを確認した。素通りするだろうと思っていたが、急に表示が変わったので彼の手前に停車することになった。見えるだろうかどうだろうかと言うほど小さなボール紙を掲げている。何が書かれているかは分からない。赤茶けた彼の動きの無い横顔を見ながら自分の気持ちが動くのを察した。反対車線がまだ青のままだと確認して五ドル札を財布から取り出した。いくらでもよかったが財布を開いて目に付いたのが五ドル札だった。ウィンドウを下げ渡す仕草をすると足早に寄ってきて、受け取ろうとする。と同時に片足を膝まづけた。それまで気付かなかったが何か分厚いものを抱えている。聖書だった。表紙が薄紫色に変色し消えかかったHOLYBIBLEの文字が浮かんでいた。それを私の顔の位置まで掲げると、聖水でもかけるように右手の指を私になびかせた。そして私の目を注視しながら低い声で告げた。GODBLESSYOU. すでに青サインが出ていて急いで発進すると同時だったので、最後の方は消えて耳に届かなかった。サイドミラーにまだ膝まづいているのを確認しながら何かを自分は受け取ったと思った。あの微妙な指の動きから何かが出ていた。それは決して不快なものではなく、寧ろ何か尊い感覚だったような気がする。実は彼は数年前新聞に載ったことがある。ホームレスがどうホームレスになったかと言う記事に小さいけれど写真付で彼のことが書かれていた。いつも見かけていたので目に留まった。いつも彼はボロボロではあるけれど軍服を着ている。記事を読むと以前は空軍の隊員であったと書かれていた。軍隊にいたのであれば恩給なり何かの保障はありそうなものだがと思ったが、英語の記事など通して読むほど理解力も忍耐力もなくその真意はわからない。何とも言えないが今の彼の現実はホームレス生活だ。今まで気にも留めなかったが、彼に手渡したときのあの目が忘れられない。あの目は世捨て人の目ではなく、何かの信念を持った目だった。

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