2009年3月29日日曜日

今日の想い 67

自分は駄目だ駄目だと呪文のように唱えながら歩んできて、それでも離れずしがみついて来れたのはどうしてだろう。過去の私を少しでも知っている者は、久しぶりの私を見ていっとき言葉を無くす。相手の目が一瞬泳ぎ、その驚きを隠せない。あんな基準の低かった者が落ちずに残っていると言う感嘆だ。無理も無い。それ程に自分は駄目人間、駄目食口の代表だった。どんなに立派と言われる責任者も最初はそれなりに指導してくれるものの、そのうちサジを投げ出す。尻を叩いても実績を残してはこない。そのうち叩かれ怒鳴られ冷たい視線を浴びせる。み言はそれなりに入りはしたけれど、それと今、突きつけられる上からの要求が照合しない。解らないまま首を振りつつしがみついてきた期間がある。馬鹿だ何だと言われながら、突き放されれば突き放されるほど祝福願望は強くなっていった。ある責任者にこんな話を聞いたことがある。来日された折、本部教会でお話された後のことだ。兄弟皆が外に出てお送りしようと群がっている中で、ある子女様が御父様が乗られる車に触れようとしたとき、ものすごい勢いで叱責された。居合わせた誰もがその状況に固唾を呑んだ、と言う話なのだが、その場に居たわけではないので事の次第は良く解らない。イエス様が宮の庭で台をひっくり返し、父の家を商売の家とするなと憤怒されたのと匹敵するほどの情景が浮かぶ。よくよく慮るに、意図してそうされたとしか思えない。サタンが打つ前に御父様が打つ事で、何かを清算され何かを生かしたと捉えるしかないだろう。叱責するにはあまりにも些細な事であり、ましてや多くの兄弟が群がっている中での皆の注目を浴びての事である。御父様の単純な感情云々で起こってしまった事と結論付けて納得できることではない。日本の摂理が大きく係っている出来事だったと、自分はその話を聞いて思った。自分という人間を復帰する過程に於いても、摂理とは何の関わりも無いような仕打ちを敢えて受けさせることで、サタンに奪われることを避けさせてきたのではないか、と言う思いが後になって湧いてくる。自分に関して言えば心情の供え物などと言うには余りにも大げさだが、心が折れるような試練こそ、背後に御父母様が共におられ自分が味わう以上の心情の供え物を捧げておられる。前の話のその場で、躊躇も許されずに愛するものを敢えて打たれる御父様の御心情はどれほど痛々しいものであったろうか。御父母様は兄弟一人一人を本当に愛しておられる。冷たく突き放しておられるようで、実はそれはサタンに対するカモフラージュであって、愛すればこそそうせざるを得ない父母の葛藤を読んであげればこそ、子としての立場も立つ。

2009年3月28日土曜日

今日の想い 66

自分は内向的だからとか、口が上手くなく人と接する事が苦手だとか、客商売にはどうも合わないとか、出来ない百の理由を並べながら、実は並べる事で自分の可能性の否定をゆるぎないものにしている。出来ない事を並べるより、出来る事を一つでも二つでも並べていけば、そこから出来る確信に繋がる可能性の芽が芽生えてくるにも係らず、最初に自分は出来ないと言う決め付けがあってその理由付けを並べるのであれば、それは怠惰と言う自分の堕落性から来るものだ。身体はいつも一生懸命動かしていて肉体的には怠惰な人間とは言えなくても、内的精神的に怠惰であれば肉体的怠惰以上に弊害は大きい。それは人間としての内的霊的成長をストップさせる。内向的な自分と言うのは事実かもしれない。自分を含め多くの兄弟は内向的だろう。しかし内向的な自分を外向的な自分に変えることが出来ないからと言う理由は、出来ない事の理由にはならない。更に内向的自分の在り様を否定的悲観的なこととして認識している事自体が天邪鬼(あまのじゃく)という怠惰霊に呪縛されている。私に言わせれば、誰彼かまわず話しかけたり口数の多い者ほど信用できない。私の周りにいるそれなりに成功したと言われる知人は誰も口数は少ない方だし、少ない分思慮に富んでいる。内向的であるなら自分の心の在り様を観察しながら、どういった人との接し方が自分的なのか自分的接客なのか、内的霊的感性を十分働かせて問い詰めてみればいい。自分にしか出来ない接し方があり、自分にしか出来ない仕事のこなし方があり、自分にしか出来ないビジネスがある。他を見ながら自分の性格を検証したり学んだり自分流に取り入れたり出来るとしても、他人の在り様そのままを自分の中に備えることは出来ない。性格的なものを変えることは出来ないし、変える必要性もない。貴方自身の在り様を良く知る事で限りない可能性が広がってくる。その気付きに触れず、顔を落とし心を塞ぎ続けるなら自分に内在する神様や御父母様を否定したまま生きていることになる。

今日の想い 65

体の世界が中心か心の世界が中心かを自分に尋ねる時、心の世界が中心であると答えるとしても、実質としての生活は体の世界が中心となって送られていると言う事実に気付く必要がある。自分という存在を、体の世界を中心とした在り様から心の世界を中心とした在り様に変える時、始めて御父様の意味不明であったり解るようで解らなかったりしていた多くのみ言が、形が合わなくて入りきらないものが形を合わせることでストンと入るような、そんな感覚を得ながら受け取ることが出来る。体の世界を中心とするとは、地上界、即ち現象世界を見て生活の大半を送る事であり、心の世界を中心とするとは、霊界、即ち現象世界を現象世界たらしめる原因世界を見て、更に原因世界に重心を置いて生活を送る事を言う。御父様が良く語られる、心は垂直的であり体は水平的であるとか、心の垂直的真の愛と体の水平的真の愛が90度を持って交わる等と言った、数学的幾何学的説明を読み解こうとするなら、心の世界の奥の奥に訪ねていきながら原因世界の深みに下る時、即ち神秘主義的に尋ねていく時、誰も到達し得なかった原因世界の究極の真理に触れた、唯一の存在であられる御父様であればこそ口に出来る内容を、受け取ることが出来る。み言を知らない貴方は体を中心とした世界に生きているのであり、食口である私は、心を中心とした世界に生きていると言った、そんな単純なものではなない。人間誰でも地上界霊界、両方をまたいで生きているわけで、比重の置き方は常に揺れ動いている。ある時は地上界に深く浸透していたり、ある時は深い祈りの境地に入っていくと言うように、原因世界霊界にも深く係っている。そのバランスであるとか、揺れ幅であるとか、地上界霊界の両極にどれ程辿り着けるかと言った活動範囲が人間の深みとして問われる。み言の真の意味を尋ねるなら、原因世界霊界への参入を神霊に委ねながら果たすとき、そのみ言の果実を受け取ると共に、御父様の深い心情の在り様をも受け取る。

2009年3月26日木曜日

ある食口の家庭で

近くに住んでいる家庭に双子が生まれ、三ヶ月を過ぎたようでちょうど落ち着いた頃だと思い、お祝いに行った。僅かばかりのお祝いを揃えたり、外に出かけることも中々出来ないだろうと食料品やら集めて、更に出かける段になって寿司でも持っていこうかと思い付き、あれやこれやで着いた頃は夕方七時近くになっていた。国際カップルでご主人はアメリカンだが、日本人日本人している自分でさえも彼に距離を感じることは無い。アパートのドアが開くと姉妹の笑顔の後ろで、ゆりかごが二つ並べられて交互に揺れているのが目に入った。上の子も補助機を転がして近づき、特別の笑顔で迎えてくれる。だんなは、と姉妹に尋ねると今帰ったところのようで、シャワーを浴びているようだ。ゆりかごの中で双子の姉妹はすやすや眠っている。抱きかかえたい気持ちはあるが、寝ているのを起こすわけには行かないだろう。ごく普通の家庭の明るい景色そのものだが、上の子は障害を抱えている。成長度合いは普通の子に比べ、何倍も遅い。食事の摂取も経口では無理なようで腹部に直接流動食を流し入れる。自分も子を持って見て解るのだけれど、子供が病気一つするにも親にすれば相当の精神的負担がかかる。生まれ着いての障害であればどれ程心を痛めるか。子の不憫を思う気持ちから逃れる事ができず、ひたすら神様に問い続け自分に問い続け、いつ終るとも知れない魂の責めを負い続ける。多くの誰もが抱え切れないその環境を、その家庭は背負っている。しかし彼と彼女から、背負っていることへの不満や嘆きは微塵も感じ取れない。二人から醸し出される霊的雰囲気には、今の季節と同じ春爛漫の色合いが漂う。神様は受ける当人の器に合わせて環境を用意するのだろうけれど、二人に対して、それほどまでに深く広く大きな魂が最初から用意されているとは思えない。普通の家庭の何倍もの内的試練を通過してきたことは容易に想像できる。であればその子供に関わっていくことで用意されていったに違いない。となれば彼はその役目を十二分に果たしていると言う事だ。彼の中に神様が内在し二人に働きかけているのだ。そう思わざるを得ないしその判断は正しいだろう。出かける折には自分の心の中で、どこか祝ってあげると言った感覚が無かったとは言えない。しかしその家庭に接しながら、自分は与える為でなく、物よりも何よりも尊い何かを受け取る為に呼ばれたのだと気付いた。お世辞にも整った調度品のひとつもあるとは言えないアパートで、小さなテーブルを囲んで寿司を皆で頬張りながら、何気ない会話で過ごしたけれど、自分の内側は受けた感動で既に一杯になり、涙腺を絞り溢れるものを辛うじて表面に出さないよう耐えるので必死だった。軽い気持ちで来た自分は、二人に挟まれてきょろきょろしている彼の前にいることさえ恥かしく思えたけれど、生きた神様が働かれるのを直接的に感じ、この家庭が誇らしくも思えた。

2009年3月24日火曜日

乾燥した灰色の幹や広げられた枝からは、何の生命も感じるものは無く、じっと見ていれば死さえ想起させられる。
そうであるにもかかわらず、ある時合図でも待っていたかのように、一斉に紅色の蕾が芽吹く。
暫く灰色で埋められていた景色も、空の表情に合わせるように光を蓄える。
柔らかくなった大気の中で、未だ青を濃くしないパステル色を背景に、そのキャンパスの中で芽吹いてこそ調和されることを、蕾は既に知っている。
暦の上では春とは言え、風はまだ冷たい。
冷たい風に枝を揺らし、身を曝しながらも、早々と芽吹いたことを全く悔いてはいない。
ただ高みに向かって、精一杯の美を差し出すことのみに、身を捧げている。
やがては散りゆく花々と、儚さを思い描くのは人のみで、見事に散るほどに咲ききることこそ、花の誇りであり喜びなのだ。
この細い枝に芽吹いた、無数の蕾の一つにさえ、自分は頭を下げざるを得ないだろう。
一途な花々の在り様そのままを、魂深く受け取りながら、人間としての創造理想を咲かせることに、一片丹心の心情で在り続けたいと祈る。

2009年3月23日月曜日

ビジネスとみ旨

ビジネスと言う一面からしか見ない判断はビジネス評価ではあっても、み旨という観点から見れば違う評価になるだろう。現場にいれば日々の業務や次々と起こり続ける問題事項に対処していく必要性があるので、自ずと近視眼的な思考様式行動様式になるし、またそのように要求される。ある店舗から別の兄弟店舗を見る時に、売上が上がらないのは店長に覇気が無いからだとか数字に対して甘いだとか、そういった判断は的を得ているようで近視眼的であり一面的でしかない。全店を把握する位置にある者もそういった判断のみをするのであれば問題を解決することは出来ないだろう。現場の目も必要であると同時に鳥瞰的に見ることができる目も持たないと、山積みの問題を前にして頭を振るしかない。ましてやビジネス以上のみ旨という位置で、み旨の方便としてビジネスという形を取っているだけの話で、ビジネスライクに徹するとみ旨の願いとは方向性を異にする。現場の覚悟として売上や利益を絶対視することはあっても、上に立つ者が個々の売上や利益を絶対視すれば必ず崩壊する。売上低迷も赤字も、所詮経営上の起こりうる事で、それで霊的生命やみ旨そのものが奪われる訳ではない位の魂の大きさを持たないと、ぎすぎすし過ぎて全体が壊れる。車のハンドルのように遊びを持たせる必要がある。ビジネスという側面のみならず、担当する者や担当する地域の歴史と言う縦軸で見る必要もあるし、何を考え何を思って取り組んでいるかという担当者の内面世界も判断材料にする必要があるだろう。様々な角度から多面的に見渡しながら、それでも状況の完全な全体像を見届ける事はできない。それは自分の無知と足りなさから来るものであると自覚し、天の助けが必要であると、謙虚な想いと姿勢で取り組んで行くべきだ。

2009年3月22日日曜日

今日の想い 64

自分という人間がこの地上に存在するということは、人類始祖から連綿と受け継がれてきた血筋の末端を今生きていると言う事だ。僅かでもそこに思いが至るのであれば、人間としてより高みを目指しながら積み重ねてきた結果が自分という存在であるという、歴史の結実体としての自分を認識するだろう。どれほど自分の思うままに生きようともがいても、自分の中に流れる血がそれを許さない。流れる血の霊的本質としての衝動に逆らって生きることは出来ない。それは運命的なものとして魂が受け入れることで、血統的な願いに応える事になる。しかしこの血に流れる運命の基が堕落させたサタンである以上、どれ程高みを目指してもサタン以上の存在にはなれない。しかしながら祝福を受けたという意味は、堕落した人類始祖の血統に、祝福を受けた自分という原罪の血を持たない血統を接木したという意味だ。血に流れる運命の基が堕落と関係の無い真の父母にあるということだ。どれほど堕落性に染まり民族に関わる罪や先祖に関わる罪にこの血が染まっているとしても、原罪がない血であるということを熟考すべきだろう。それが過去の自分の在り様とどう違うのか、自分にどう働きかけるのか。あまりにも唯物的な物の見方考え方に毒されているので、祝福の価値が実感として受け取れてはいない。未だ中途半端に霊的な者は深みにある本質に届く事はないが、しかしみ言に触れない者であっても、善良であれば霊性は益々開かれていく。霊性が開かれれば開かれるほど、祝福の価値を認めざるを得ないだろう。そういう時が遠からず来る。御父母様に対して申し訳ないことでもあり恥かしい事であるけれど、祝福を受けた者がその価値がわからず、祝福を受けない者からその価値を知らされる。地上に生きる全ての人間存在は備えられるべくして備えられた運命圏環境圏の中にある。その中でもがく人生を越えるためには、自らの意識と心情を運命圏環境圏を越えた所に波長を合わす必要がある。それが真の父母と一つになることだ。その位置から改めて自分が置かれた立場を見渡してこそ、複雑困難な運命を切り開く道が見えてくる。よくよく内的に考察しながら自分に息づく天に繋がれた血の在り様、そこに流れ込んでくる真理と神霊、自分の内外に於ける天のものと堕落的なものとの接点やせめぎあい、そういった事柄を認識していくことで益々小さな真の父母の在り様としての自分がゆるぎない者となっていく。

2009年3月21日土曜日

今日の想い 63

人間を超える高みを目指し、最高の位置にまで舞い上がりたいと言う熱望を内に宿す。人間は高みを目指す為に動物的姿勢から上体を起こし起立姿勢で生活するようになった。更なる高みを目指そうとするなら顔を伏せて生きるべきではない。顔を上げて天を見上げながら更なる高みを目指すべきだ。芸術への衝動も精神の高みに至ることを願えばこそ、触れたいと思い創造したいと思う。それすらなく日常の生活の中に埋没し、内なる世界に何の衝動をも覚えないなら、それは生きているとは言わないだろう。熱いものを自分の中に湧き上がらせねばならない。自分という生きている存在を客観的に捉えるなら、味も無く色合いも無く何の変哲も無い、冷めた存在でしかないことに気付かないだろうか。そんな当たり障りの無い人生を送るために今を生きているのだろうか。理想をいつ捨て、夢を何処に捨ててきたのだろう。想いとしての熱いものが沸き起こり、周囲を巻き込む場にこそ、創造の神霊は天から下り、想いとしての夢や理想が地上界に組み立てられ実体化される。想いの無い所に即ち夢や理想と言った願いの無い所に、創造の神は働くことはない。多くの兄弟は苦労もしているけれど、諦めてもいる。より高みを目指したいと言う切なる想いが内的様相に見当たらない。当たり障り無く平安に暮らしたいと言う小さな執着にすがり付いている。否応無く今の環境圏を飛び出さざるを得なくなったとき、その時こそ本当の意味での人生が始まるのかもしれない。み言に最初に触れた時、献身と言う選択を取るほどに人生の方向を大きく変えてしまった。強烈な情的力が自分に働きかけたことがその原因であったとしても、いつまでも母性的なものに情的拠り所を求めているのは親離れしない子供と同じだろう。神様が熱い想いを持って理想を創造してきたように、誰かに示されて持つような他人事の夢や理想でなく、自分の夢、自分の理想を熱い想いとして備える必要がある。

2009年3月17日火曜日

み言に想う

朝の訓読で何ページ読んだとか、講論を何回読んだとか、外的な量をひとつの判断材料にすることも条件的な意味では必要なのかもしれないが、み言の本質を捉えようと思えば、一行を一日がかりで読み、一節に三日を要するというようなみ言との関わり方も必要だ。み言の中にこそ本質が隠されている。隠されていると言うより、み言の本質と自分との間に霊的な邪魔者がひしめいていたり、霞みがかった視界の遥か遠くにおぼろげに見え隠れすると言えるような霊的距離感があったりで、外的な言葉として表面をなどっただけの事で、その本質を受け取ってはいない。距離感を埋めるために霊的な歩み寄りを進める忍耐力を要し、邪魔をする霊的存在と格闘しなければならない。み言の本質を受け取る為にはあらゆる内的力を振り絞りながら、どんな犠牲も厭わないほどのみ言への執着心、御父母様の心情の奥の奥にあるものを求める探究心が必要だ。意志して取り組まない限り皮一枚めくる事すらできない。本質を捉えようとしているかどうかを確認しようと思えば、み言に触れながら感情の動きが自分にあるかどうかを問わなければならない。み言は御父様の血と汗と涙がその霊的実体の側面だ。み言に接する事で、涙を禁じえず、鞭打たれる痛みを覚え、あざ笑い蔑まされ仕打ちを受けることへの恨が燃える感情として沸き起こらなければならない。そうして受け取ったみ言こそ自己の霊的本質として再創造される生きたみ言として自分に働きかけ、周囲や社会、そして世界に働きかける。み言の力は自分の内面や自己再創造に留まらず、地上人や霊人、更に地上界霊界にまでその影響範囲を広げていく。み言に見る真の愛の色彩で、地上を覆い霊界の隅々まで、たゆまない愛の流れと共に染められていく。

2009年3月16日月曜日

畏敬の想い

畏れ敬うという畏敬の想いを、全ての存在に対して日常的に持ち得る事が大切だ。宗教心を持った人であれば食前の感謝の祈りを捧げる者は多いが、全存在の一つ一つに対して感謝し敬う思いを持つ人は少ない。自分が存在することで犠牲になっている存在、殺されている存在が周りにあるという認識と、それに対する申し訳ない心情を持つ事が、肉の目では見えない内的霊的なものを見ることができる霊的視覚を芽生えさせる。人間は酸素を吸って炭素を吐き出す。吐いた炭素の中で生きることは出来ないから、炭素を酸素に変える存在が不可欠となる。それが植物に拠るものであることは誰でも知っているが、自分は植物に拠って生かされているという事実に対する感情を持って生きている人がどれ程いるかと問うなら甚だ疑問だ。至極当然当たり前の事として何の感情も覚えない人のほうが多い。妻は何度か入院しているが、子供にしてみれば当然のように目の前に出されていた食事が、母親が入院することで急に出て来なくなる。仕方なく暫く在り合わせのもので食事を済ましたり、手こずりながら作った事もない食事を作ることで先ず不便さを味わう。その時点では困った位のことしか内面に無いのだけれど、やっと退院して妻が食事を作り始める。しかし体調は芳しくないので子供の目にもその大変さは解る。やっと出されたその食事の中に母親の犠牲が入っている事を始めて認識する。何の感情も無しに食べていた子供が、何らかの感情を持って箸を進める。子供がそう言った気付きを持つように、それは食事だけとか何か特別に与えられたものに対する時だけ覚えるものではなく、空気や光を初め自分の周囲のあらゆる存在に対して、そう言った想いを覚えるべきなのだ。母への有り難味を食事の時に差し出すように、あらゆる存在に対して、或いは受け取る者として与えてくれた存在に対して畏敬の想いを差し出すことが大切だろう。全ての存在が存在たる為には愛が介入されている。自分が住んでいるこの肉体を形作り維持する為に、そこに寸分の狂いも無い緻密さが要求され、そうあらしめる存在の多大な犠牲的奉仕が投入されている。それに対する畏敬の念を持たない事は大きな罪ではないだろうか。自殺が最大の罪であるという事実は、それが一つの意味でもある。

2009年3月14日土曜日

今日の想い 62

責任者として立つなら、それなりの犠牲を払うことになる。担当する部署の維持と実績を自分に課すれば、部下や抱える従業員にどう接するかは責任者としての重要事項だろう。責任者の視点と従業員の視点は異なるものだという前提を踏まえないと、失意と落胆は大きく、ストレスが嵩む。責任者は上から見下ろす視線であり現場の従業員は下から見上げる視線だというのを理解しておかないとひとつになる場を決められない。上から見下ろす者は自分の位置まで意識を高める事を要求し、下から見上げる者は現場の位置まで降りてくれる事を要求する。上と下の歩み寄った所が妥協点となるが、本当に一つになるためには責任者は先ず一番下の位置を支える位置まで下る必要がある。誰よりも下に下っていきながら、目の前にいる従業員と自分との距離感や温度差を把握し、どう縮めるかを念頭に置きながら接する事が大切だ。そうしながら一つ一つ上に進み上に立ってこそ責任者の位置を復帰できる。今ひとつは人間(堕落人間)としての感情にどう対処し自分の感情をどうコントロールするかだ。従業員同士お互い悪い点は見えていても敢えて相手に指摘はしない。職場に於いて人間関係は彼らの最も気を使う点であり、直属の上司に好きなことは言えたとしても同僚には何も言えない場合が多い。言えば相手の感情に波風を立てるだろうし感情を自分の中に留めて消化できるほど人間力はない。何らかの影響を逆に受けることは解り切っているので敢えて触れようとはしない。しかし責任者は見て見ぬ振りをする訳にはいかず、従業員との間に波風を立てることを承知で言及する事になる。誰だって悪者になりたくはない。しかし悪者になることを敢えて買って出る覚悟が責任者には必要になる。そう言う意味では従業員には解らない苦悩や孤独感を味わうだろうし、だからこそ位置に立つ事で人間的成長も早くなる。表面的外的な事柄以上に内的な事柄や内的成長を価値あるものとする認識を持たない限り責任ある位置に立つ事は苦悶以外の何物でもない。悪者扱いされながら、それでも相手を愛する事ができるかという試練が目の前にある。その試練を超えたところに新たな自己と新たな環境が広がっている。

2009年3月11日水曜日

ビジネス考察

この五年十年の経済システムは金融が大きな比重を占めてきた。もはや金融市場が立ち行かなくなり、世界経済の崩壊は時間の問題だ。金融工学が発達して、少ない投資で莫大な金額を動かせる事が可能になったここ数年、本来なら金融という大河を、資本が届かない地域や人々に流すべき摂理としての天の計らいが、富める者が更に富めるようにミスユーズしてしまった。経済人の道徳性の欠如と、内的霊的価値観への目覚めが無かったことが根底にある。信用経済と言うように信用があってこそ流れるものが、お互いがお互いを疑心暗鬼の目で見ており、もはや大河は不信で一変に枯れ果てた。実は信用で流れるべきものが、実のところ信用に名を借りた欲が、その背後にあり流れていた。商売=儲けという自己中心の図式から、事業=社会貢献という他の為に生きる図式へと、人間社会の血流としての進化を願われてきたにも関わらず、金融市場の出現と発展が更なる社会貢献へと昇華できず、物と自己への執着に堕落してしまった。どれだけ国債を発行し、どれだけ中央銀行が買い取ろうとも、そこには信用の創造はない。公共投資と言ってもここまで物に溢れあらゆる利便性が享受できる社会や国で、更なる国内で箱物や建造物への物投資は莫大な無駄遣いであって信用創造の為の投資にはならない。もはや国という次元を超えて、世界を地球村として捉えなければ経済は立ち行かない状況であり、これは知恵ある天の計らいに違いない。御父様が提唱しておられるベーリング海峡トンネルプロジェクトであるとか、後進国への援助という形こそ、新たな信用創造へ足を踏み込むことになるはずだ。マクロの視点に立てばそういった方向性が見えてくるように、身近なビジネス活動も、自分や自社の儲けに動機があるのか、為に生きるという社会貢献が動機としてあるのかをとことん問われることになる。我々の事業体ですら例外ではない。御父様の名を掲げてはいるものの、結局は生活の為だったと言うのであれば沙汰されて当然だ。み旨であり為に生きる精神の見本となる、そうして御父母様の証を立てると言う想いと意志でトップから現場まで貫かれてこそ天の運勢圏に入ることが出来る。そのように悔い改め動機を正して、出発する必要がある。今日一日、一人でも尋ねて下さるお客様がいるなら、その方の為に店を開き準備し、御父母様の代身として祈りと想いを込めてもてなす。御父母様の霊が共にあり働きかけておられることを満身に感じながら歩んでこそ、天の運勢圏に入って行くことが出来る。

2009年3月8日日曜日

霊界考察

この地上に於いては、霊界では明らかに顔すら合わせることの無い、、霊の在り様が異なる者同士が、地上という一つの面の上で生活している。神と悪魔が同じ形状の肉体に棲み、感覚世界を共有している。この一つの肉体の中に、自分という人類始祖以来の血統圏の全要素を組み入れられた存在として、或いはそういった霊的事柄を清算すべく、この今生を生きている。複雑極まりない人生様相や、感情が複雑に絡まった人間関係が何に起因するものかを知ろうと思えば、その霊的背後を見ずしては解り得ない。自分の周辺に起こる事柄や、それに影響を受けたり巻き込まれたり或いは働きかけながら、過去生の清算と自己の再創造が為されていく。肉体は構成要素である元素世界の道理が根底にある。元素世界の道理を超えて人間としての機能や人間を形作っているものは、肉体に働きかけ維持している生命体の存在でありそこに生きて経験した全ての事柄が記憶されている。肉体の死を迎えてもこの生命体は暫く生き続ける為に、刻まれたあらゆる記憶を見せられる。肉の身体を脱ぎ記憶の身体を脱ぐと、いよいよ霊界への参入となるがその入り口で更に欲の身体を脱ぐ必要がある。本能的な欲、自己中心的な欲、そして物に起因する欲が自分の霊体に癒着している。それを削ぎ落とし脱ぎ捨てなければ霊界に入っていく事はできない。多くの者達は霊体の多くを占めるこの欲の肉を削ぎ落とせない為に霊界に入って行く事すら出来ない。そう言った者達の集まりが居場所を求めた所も一つの地獄と言う事もできる。地上の生と霊界の生はどういう関係性を持っているのだろうと問う時、存在様相がこの世と真逆に働いているとも言える。地上に於ける外界が霊界に於いては自分の内なる世界となり、心の世界が霊界の外界となって周囲に現れる。自分以外の存在が私の存在に拠ってどう影響を与えたかが、霊界に於いてはそのまま自己様相として現れる。相手が私によって痛みを覚えれば、霊界に於いては与えた痛みに等しく痛みを覚える。相手が私によって喜びを感じれば、その喜びが自分の喜びとなる。内面に深い愛が浸透していれば、霊界に於いて愛が美となって周囲の様相に繁栄される。み言をして思考が組み立てられると、霊界に於いては真の世界が現れる。為に生きる意志を強くする事で、霊界に於いて善なる世界が広がる。地上に於いては皮一枚隔てた内なる世界が、霊界に於いては外界となり、そしてそこに住まう。

2009年3月7日土曜日

霊界について

霊界を正しく認識している者は非常に少ない。食口ですら、霊界そのものの存在を疑う事は無いにしても、地上世界に住むのと同じような感覚世界がもう一つあると言う位の認識に留まっている。地上世界に暮らしながら霊界にも暮らしているという事実がありながらそういった認識は無く、霊界とはこの世を去って住む死後の世界だとして、善行を為せば天国に行き悪行を働けば地獄行きくらいの漠然とした感覚で捉え、地上界と霊界の直接的関係性は把握していない。どんな悪なることを考えようとも自分の内面に留める限りは自由であり、考えるだけなら何ら害を与えないだろうと言う間違った信仰、唯物信仰を受け入れている。こういった認識は明らかに霊界を正しく認識してはいない。実際は形となって表れる事柄には、それなりの見えない霊的事柄が背後にありそれが実体化されたものだ。自分の内に留めるどのような思考も、どのような感情も、悪としての具体的行動と同じく、一個の現実、一個の存在、一個の形に他ならない。誰でも情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(マタイ6-28)。この聖句はそう言った意味に於いて重く受け取られる。もし私が、誰かを悪い人間だと考えたり憎んだり愛さなかったら、その人の霊人体に対して稲妻や銃弾のように射る矢が発せられ霊人体を害する。他人を肉体的に害するより、その行動を起こし得た抱いている悪い思いや憎しみの方が問題なのだ。ある人について善なる思考をすると善なる思考形態が作り出され、それはその人の生命を強める。善なる思考は生命を育てる要素を形成し、悪なる思いは生命を害する要素を形成する。内なる思考活動はそう言った意味で創造要素を創造している。善の創造なのか悪の創造なのかは一人一人に委ねられている。霊視できるに越した事は無いが、霊界が見えるとか見えないとかが本質的問題ではない。見えるという感覚的な内容で測れるほど、霊界は一面的ではない。かえって見えることで本質を見失う事のほうが遥かに大きい。

選ばれし者

ごく少数の、魂が準備された者だけに、隠されたみ言の本質が伝授された。祝福の世界化、人類総祝福が願われ、み言の本質が理解できない者も祝福だけは受け取ることが出来る。しかしみ言の本質は選ばれた者のみが伝授される。み言はこの世的好奇心や知識欲を満足させるものではない。と言うより、み言を受け入れようとするなら痛みや苦痛が伴う。犠牲にするものも多い。それでも受け入れようとする意志は、自分の中から出てきた意志に非ず真の父母から受け取った意志に他ならない。逃れようにも逃れられない、否定しようにも否定できないこの意志こそ、み言の本質を伝授させる為に真の父母から届いた分神霊としての意志なのだ。この意志が届き、預かる者こそ選ばれし十四万四千の聖徒に違いない。み言を受け入れるとは、理解するという意味ではなく、み言に込められた願いに沿うて行動に移されるべきものであり、国家や社会に働きかけるべきものであり、願いに沿って理想世界を実践的に築き上げるものだ。行動を伴わないのであれば、み言を受け入れたとは言わない。人類歴史の流れを見たときに、歴史書物に著された文明であるとか国家の衰退であるとか有名な人物であるとかは、歴史の上っ面だけをなぞったものであり、それらの根源に流れる衝動こそ人類歴史を動かしてきた本質なのだ。人類救済、被造世界再創造のための摂理歴史の偉大な歩みは全て、隠れたものからの衝動に由来する。よって衝動するための意思を中心人物として預かった者は犠牲を伴う厳しい試練を課せられ、中心人物として相応しい者かどうか、み言を受けるに値する者かどうか、常に試されてきた。試練に打ち勝ち、神とサタンの公認を受けて初めて段階を追いながら、み言の本質に参入していくことができる。選ばれた者とはそう言う意味である。

2009年3月4日水曜日

今日の想い 61

御父母様を内面に迎え入れ、自分の存在様相全てが御父母様に拠るものとなる。思考も感情も意志も、魂の活動内容が迎え入れた御父母様から発せられるもので浸透されていなければならない。大宇宙が御父母様を迎える事で新たな新生宇宙になるように、小宇宙である人間ひとりひとりも御父母様を迎え入れる事で開放され、神様の創造理想に適う在り様に変革されていく。御父母様が生きて自分という人間存在の再創造に直接的に働かれる。思考する過程の中に、御父母様によって触発される創造回路がスパークして生み出され、神様を想い、そして人類を愛おしく想い万物を愛でる御父母様の心情様相を自分のそれとして受け取り、そういった内なるものが留める事ができない衝動となって対象に働きかける。しかしながら、そういった在り様への憧れと同時に、事実、抜けきれないでいる内的外的しがらみの罠にはまり込み、もがき嘆く様相をも呈している自分がいる。憧れと嘆きを同時的に内包しながら、一方は真の父母に繋がりもう一方はサタンに繋がっている。引き摺られるままに嘆きに没頭すれば希望は遠のいていく。嘆きの感情の只中で御父母様を求めてもその声は御父母様には届かない。救いはその感情を手放した位置に辿り着いて始めて手に届くものとなる。真の父母への憧れを強く強く意志して保持しながら、サタンの思うままに嘆きの感情に引きずり込まれない自分となる。自分に取っての信仰の確立とは先ず強さだろう。堕落環境に取り巻かれて人間の本質を取り戻す為には、信仰としての強さが欠かせない。寛容も情け深さも、忍耐も謙虚も、強さがあってこそ得る事が出来るのだと思う。