2009年3月17日火曜日

み言に想う

朝の訓読で何ページ読んだとか、講論を何回読んだとか、外的な量をひとつの判断材料にすることも条件的な意味では必要なのかもしれないが、み言の本質を捉えようと思えば、一行を一日がかりで読み、一節に三日を要するというようなみ言との関わり方も必要だ。み言の中にこそ本質が隠されている。隠されていると言うより、み言の本質と自分との間に霊的な邪魔者がひしめいていたり、霞みがかった視界の遥か遠くにおぼろげに見え隠れすると言えるような霊的距離感があったりで、外的な言葉として表面をなどっただけの事で、その本質を受け取ってはいない。距離感を埋めるために霊的な歩み寄りを進める忍耐力を要し、邪魔をする霊的存在と格闘しなければならない。み言の本質を受け取る為にはあらゆる内的力を振り絞りながら、どんな犠牲も厭わないほどのみ言への執着心、御父母様の心情の奥の奥にあるものを求める探究心が必要だ。意志して取り組まない限り皮一枚めくる事すらできない。本質を捉えようとしているかどうかを確認しようと思えば、み言に触れながら感情の動きが自分にあるかどうかを問わなければならない。み言は御父様の血と汗と涙がその霊的実体の側面だ。み言に接する事で、涙を禁じえず、鞭打たれる痛みを覚え、あざ笑い蔑まされ仕打ちを受けることへの恨が燃える感情として沸き起こらなければならない。そうして受け取ったみ言こそ自己の霊的本質として再創造される生きたみ言として自分に働きかけ、周囲や社会、そして世界に働きかける。み言の力は自分の内面や自己再創造に留まらず、地上人や霊人、更に地上界霊界にまでその影響範囲を広げていく。み言に見る真の愛の色彩で、地上を覆い霊界の隅々まで、たゆまない愛の流れと共に染められていく。

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