2009年3月16日月曜日

畏敬の想い

畏れ敬うという畏敬の想いを、全ての存在に対して日常的に持ち得る事が大切だ。宗教心を持った人であれば食前の感謝の祈りを捧げる者は多いが、全存在の一つ一つに対して感謝し敬う思いを持つ人は少ない。自分が存在することで犠牲になっている存在、殺されている存在が周りにあるという認識と、それに対する申し訳ない心情を持つ事が、肉の目では見えない内的霊的なものを見ることができる霊的視覚を芽生えさせる。人間は酸素を吸って炭素を吐き出す。吐いた炭素の中で生きることは出来ないから、炭素を酸素に変える存在が不可欠となる。それが植物に拠るものであることは誰でも知っているが、自分は植物に拠って生かされているという事実に対する感情を持って生きている人がどれ程いるかと問うなら甚だ疑問だ。至極当然当たり前の事として何の感情も覚えない人のほうが多い。妻は何度か入院しているが、子供にしてみれば当然のように目の前に出されていた食事が、母親が入院することで急に出て来なくなる。仕方なく暫く在り合わせのもので食事を済ましたり、手こずりながら作った事もない食事を作ることで先ず不便さを味わう。その時点では困った位のことしか内面に無いのだけれど、やっと退院して妻が食事を作り始める。しかし体調は芳しくないので子供の目にもその大変さは解る。やっと出されたその食事の中に母親の犠牲が入っている事を始めて認識する。何の感情も無しに食べていた子供が、何らかの感情を持って箸を進める。子供がそう言った気付きを持つように、それは食事だけとか何か特別に与えられたものに対する時だけ覚えるものではなく、空気や光を初め自分の周囲のあらゆる存在に対して、そう言った想いを覚えるべきなのだ。母への有り難味を食事の時に差し出すように、あらゆる存在に対して、或いは受け取る者として与えてくれた存在に対して畏敬の想いを差し出すことが大切だろう。全ての存在が存在たる為には愛が介入されている。自分が住んでいるこの肉体を形作り維持する為に、そこに寸分の狂いも無い緻密さが要求され、そうあらしめる存在の多大な犠牲的奉仕が投入されている。それに対する畏敬の念を持たない事は大きな罪ではないだろうか。自殺が最大の罪であるという事実は、それが一つの意味でもある。

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