2009年3月22日日曜日
今日の想い 64
自分という人間がこの地上に存在するということは、人類始祖から連綿と受け継がれてきた血筋の末端を今生きていると言う事だ。僅かでもそこに思いが至るのであれば、人間としてより高みを目指しながら積み重ねてきた結果が自分という存在であるという、歴史の結実体としての自分を認識するだろう。どれほど自分の思うままに生きようともがいても、自分の中に流れる血がそれを許さない。流れる血の霊的本質としての衝動に逆らって生きることは出来ない。それは運命的なものとして魂が受け入れることで、血統的な願いに応える事になる。しかしこの血に流れる運命の基が堕落させたサタンである以上、どれ程高みを目指してもサタン以上の存在にはなれない。しかしながら祝福を受けたという意味は、堕落した人類始祖の血統に、祝福を受けた自分という原罪の血を持たない血統を接木したという意味だ。血に流れる運命の基が堕落と関係の無い真の父母にあるということだ。どれほど堕落性に染まり民族に関わる罪や先祖に関わる罪にこの血が染まっているとしても、原罪がない血であるということを熟考すべきだろう。それが過去の自分の在り様とどう違うのか、自分にどう働きかけるのか。あまりにも唯物的な物の見方考え方に毒されているので、祝福の価値が実感として受け取れてはいない。未だ中途半端に霊的な者は深みにある本質に届く事はないが、しかしみ言に触れない者であっても、善良であれば霊性は益々開かれていく。霊性が開かれれば開かれるほど、祝福の価値を認めざるを得ないだろう。そういう時が遠からず来る。御父母様に対して申し訳ないことでもあり恥かしい事であるけれど、祝福を受けた者がその価値がわからず、祝福を受けない者からその価値を知らされる。地上に生きる全ての人間存在は備えられるべくして備えられた運命圏環境圏の中にある。その中でもがく人生を越えるためには、自らの意識と心情を運命圏環境圏を越えた所に波長を合わす必要がある。それが真の父母と一つになることだ。その位置から改めて自分が置かれた立場を見渡してこそ、複雑困難な運命を切り開く道が見えてくる。よくよく内的に考察しながら自分に息づく天に繋がれた血の在り様、そこに流れ込んでくる真理と神霊、自分の内外に於ける天のものと堕落的なものとの接点やせめぎあい、そういった事柄を認識していくことで益々小さな真の父母の在り様としての自分がゆるぎない者となっていく。
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