2009年3月7日土曜日

選ばれし者

ごく少数の、魂が準備された者だけに、隠されたみ言の本質が伝授された。祝福の世界化、人類総祝福が願われ、み言の本質が理解できない者も祝福だけは受け取ることが出来る。しかしみ言の本質は選ばれた者のみが伝授される。み言はこの世的好奇心や知識欲を満足させるものではない。と言うより、み言を受け入れようとするなら痛みや苦痛が伴う。犠牲にするものも多い。それでも受け入れようとする意志は、自分の中から出てきた意志に非ず真の父母から受け取った意志に他ならない。逃れようにも逃れられない、否定しようにも否定できないこの意志こそ、み言の本質を伝授させる為に真の父母から届いた分神霊としての意志なのだ。この意志が届き、預かる者こそ選ばれし十四万四千の聖徒に違いない。み言を受け入れるとは、理解するという意味ではなく、み言に込められた願いに沿うて行動に移されるべきものであり、国家や社会に働きかけるべきものであり、願いに沿って理想世界を実践的に築き上げるものだ。行動を伴わないのであれば、み言を受け入れたとは言わない。人類歴史の流れを見たときに、歴史書物に著された文明であるとか国家の衰退であるとか有名な人物であるとかは、歴史の上っ面だけをなぞったものであり、それらの根源に流れる衝動こそ人類歴史を動かしてきた本質なのだ。人類救済、被造世界再創造のための摂理歴史の偉大な歩みは全て、隠れたものからの衝動に由来する。よって衝動するための意思を中心人物として預かった者は犠牲を伴う厳しい試練を課せられ、中心人物として相応しい者かどうか、み言を受けるに値する者かどうか、常に試されてきた。試練に打ち勝ち、神とサタンの公認を受けて初めて段階を追いながら、み言の本質に参入していくことができる。選ばれた者とはそう言う意味である。

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