2009年3月28日土曜日
今日の想い 65
体の世界が中心か心の世界が中心かを自分に尋ねる時、心の世界が中心であると答えるとしても、実質としての生活は体の世界が中心となって送られていると言う事実に気付く必要がある。自分という存在を、体の世界を中心とした在り様から心の世界を中心とした在り様に変える時、始めて御父様の意味不明であったり解るようで解らなかったりしていた多くのみ言が、形が合わなくて入りきらないものが形を合わせることでストンと入るような、そんな感覚を得ながら受け取ることが出来る。体の世界を中心とするとは、地上界、即ち現象世界を見て生活の大半を送る事であり、心の世界を中心とするとは、霊界、即ち現象世界を現象世界たらしめる原因世界を見て、更に原因世界に重心を置いて生活を送る事を言う。御父様が良く語られる、心は垂直的であり体は水平的であるとか、心の垂直的真の愛と体の水平的真の愛が90度を持って交わる等と言った、数学的幾何学的説明を読み解こうとするなら、心の世界の奥の奥に訪ねていきながら原因世界の深みに下る時、即ち神秘主義的に尋ねていく時、誰も到達し得なかった原因世界の究極の真理に触れた、唯一の存在であられる御父様であればこそ口に出来る内容を、受け取ることが出来る。み言を知らない貴方は体を中心とした世界に生きているのであり、食口である私は、心を中心とした世界に生きていると言った、そんな単純なものではなない。人間誰でも地上界霊界、両方をまたいで生きているわけで、比重の置き方は常に揺れ動いている。ある時は地上界に深く浸透していたり、ある時は深い祈りの境地に入っていくと言うように、原因世界霊界にも深く係っている。そのバランスであるとか、揺れ幅であるとか、地上界霊界の両極にどれ程辿り着けるかと言った活動範囲が人間の深みとして問われる。み言の真の意味を尋ねるなら、原因世界霊界への参入を神霊に委ねながら果たすとき、そのみ言の果実を受け取ると共に、御父様の深い心情の在り様をも受け取る。
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