2009年3月26日木曜日

ある食口の家庭で

近くに住んでいる家庭に双子が生まれ、三ヶ月を過ぎたようでちょうど落ち着いた頃だと思い、お祝いに行った。僅かばかりのお祝いを揃えたり、外に出かけることも中々出来ないだろうと食料品やら集めて、更に出かける段になって寿司でも持っていこうかと思い付き、あれやこれやで着いた頃は夕方七時近くになっていた。国際カップルでご主人はアメリカンだが、日本人日本人している自分でさえも彼に距離を感じることは無い。アパートのドアが開くと姉妹の笑顔の後ろで、ゆりかごが二つ並べられて交互に揺れているのが目に入った。上の子も補助機を転がして近づき、特別の笑顔で迎えてくれる。だんなは、と姉妹に尋ねると今帰ったところのようで、シャワーを浴びているようだ。ゆりかごの中で双子の姉妹はすやすや眠っている。抱きかかえたい気持ちはあるが、寝ているのを起こすわけには行かないだろう。ごく普通の家庭の明るい景色そのものだが、上の子は障害を抱えている。成長度合いは普通の子に比べ、何倍も遅い。食事の摂取も経口では無理なようで腹部に直接流動食を流し入れる。自分も子を持って見て解るのだけれど、子供が病気一つするにも親にすれば相当の精神的負担がかかる。生まれ着いての障害であればどれ程心を痛めるか。子の不憫を思う気持ちから逃れる事ができず、ひたすら神様に問い続け自分に問い続け、いつ終るとも知れない魂の責めを負い続ける。多くの誰もが抱え切れないその環境を、その家庭は背負っている。しかし彼と彼女から、背負っていることへの不満や嘆きは微塵も感じ取れない。二人から醸し出される霊的雰囲気には、今の季節と同じ春爛漫の色合いが漂う。神様は受ける当人の器に合わせて環境を用意するのだろうけれど、二人に対して、それほどまでに深く広く大きな魂が最初から用意されているとは思えない。普通の家庭の何倍もの内的試練を通過してきたことは容易に想像できる。であればその子供に関わっていくことで用意されていったに違いない。となれば彼はその役目を十二分に果たしていると言う事だ。彼の中に神様が内在し二人に働きかけているのだ。そう思わざるを得ないしその判断は正しいだろう。出かける折には自分の心の中で、どこか祝ってあげると言った感覚が無かったとは言えない。しかしその家庭に接しながら、自分は与える為でなく、物よりも何よりも尊い何かを受け取る為に呼ばれたのだと気付いた。お世辞にも整った調度品のひとつもあるとは言えないアパートで、小さなテーブルを囲んで寿司を皆で頬張りながら、何気ない会話で過ごしたけれど、自分の内側は受けた感動で既に一杯になり、涙腺を絞り溢れるものを辛うじて表面に出さないよう耐えるので必死だった。軽い気持ちで来た自分は、二人に挟まれてきょろきょろしている彼の前にいることさえ恥かしく思えたけれど、生きた神様が働かれるのを直接的に感じ、この家庭が誇らしくも思えた。

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