2009年3月29日日曜日

今日の想い 67

自分は駄目だ駄目だと呪文のように唱えながら歩んできて、それでも離れずしがみついて来れたのはどうしてだろう。過去の私を少しでも知っている者は、久しぶりの私を見ていっとき言葉を無くす。相手の目が一瞬泳ぎ、その驚きを隠せない。あんな基準の低かった者が落ちずに残っていると言う感嘆だ。無理も無い。それ程に自分は駄目人間、駄目食口の代表だった。どんなに立派と言われる責任者も最初はそれなりに指導してくれるものの、そのうちサジを投げ出す。尻を叩いても実績を残してはこない。そのうち叩かれ怒鳴られ冷たい視線を浴びせる。み言はそれなりに入りはしたけれど、それと今、突きつけられる上からの要求が照合しない。解らないまま首を振りつつしがみついてきた期間がある。馬鹿だ何だと言われながら、突き放されれば突き放されるほど祝福願望は強くなっていった。ある責任者にこんな話を聞いたことがある。来日された折、本部教会でお話された後のことだ。兄弟皆が外に出てお送りしようと群がっている中で、ある子女様が御父様が乗られる車に触れようとしたとき、ものすごい勢いで叱責された。居合わせた誰もがその状況に固唾を呑んだ、と言う話なのだが、その場に居たわけではないので事の次第は良く解らない。イエス様が宮の庭で台をひっくり返し、父の家を商売の家とするなと憤怒されたのと匹敵するほどの情景が浮かぶ。よくよく慮るに、意図してそうされたとしか思えない。サタンが打つ前に御父様が打つ事で、何かを清算され何かを生かしたと捉えるしかないだろう。叱責するにはあまりにも些細な事であり、ましてや多くの兄弟が群がっている中での皆の注目を浴びての事である。御父様の単純な感情云々で起こってしまった事と結論付けて納得できることではない。日本の摂理が大きく係っている出来事だったと、自分はその話を聞いて思った。自分という人間を復帰する過程に於いても、摂理とは何の関わりも無いような仕打ちを敢えて受けさせることで、サタンに奪われることを避けさせてきたのではないか、と言う思いが後になって湧いてくる。自分に関して言えば心情の供え物などと言うには余りにも大げさだが、心が折れるような試練こそ、背後に御父母様が共におられ自分が味わう以上の心情の供え物を捧げておられる。前の話のその場で、躊躇も許されずに愛するものを敢えて打たれる御父様の御心情はどれほど痛々しいものであったろうか。御父母様は兄弟一人一人を本当に愛しておられる。冷たく突き放しておられるようで、実はそれはサタンに対するカモフラージュであって、愛すればこそそうせざるを得ない父母の葛藤を読んであげればこそ、子としての立場も立つ。

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