2009年5月12日火曜日

今日の想い 81-1

店長の多くは五十を過ぎて六十に近い。毎日の営業を続けることがどれ程の激務であるか、若い者ですらへとへとになるのにその年で仕事をこなそうと思えば過労死と背中合わせだ。肉体的な事もさることながら客商売であるからいつも緊張感を保ち客の反応に神経を集中させる必要がある。更に店長ともなれば全体にも目を遣り従業員ひとりひとりにも心情を注がないと店としてスムーズな動きにはならない。いろんな問題は同時的に起こるし雑用にしたって誰もやらなければ店長自らがやらざるを得ない。そのように四半世紀走ってきて店長達の中に強度の心身疲弊が見える。本来ならこの間に店も成長し、店長も従業員も成長し、全体として増えていくのが願いであったけれども、如何せん献金拠出に明け暮れ、将来への投資どころか維持費ですら儘ならない状態で今日まで来た。生かさず殺さずの状態にある者に断食を強要しているようなものだ。上から見れば、現場にある者が馬鹿に見えるらしい。馬鹿にならざるを得ない状況だったから馬鹿になった訳で、好きでそうなったのではない。資金も無い人材も無い知恵も無い立場で、兎に角毎日の営業だけは絶やさないようにと思えば希望を見据える意志を捨てざるを得ないだろう。それに異論を挟むのであれば二十数年間現場で歩んでみてから口に出して欲しい。状況を説明しようと思えば、未だに上やアベルに対して批判的だの不平不満だのと突っ張り、耳に鉄板が貼られているかの如くで文字通り聞く耳持たずだ。上と下、上司と部下、命令する人とされる人、組織に於いてこのすみ分けが機能を果たし上意下達のみの一方通行は一昔前の教会体質であり、何がみ旨か訳も分からず歩んでいた当時に於いてはモーセ的存在に引っ張られて付いて行く一時代があった。しかし後天時代に入った今、自分の名で祈る事が出来るように許され、一人一人の自我意識が明るくなった状態に於いてはかつての方法は役に立たない。役に立たないどころかイエス様当時の祭司長や律法学者と同じでみ旨を阻んでさえいる。御父様が願われていると言う言葉を錦の御旗にしてごり押しするのは御父様の願いとは明らかに違う。何が本当の御父様の願いかという感性さえ失われて従うのは、内的自由さえ失う。兄弟は今でこそ自由を取り戻して欲しい。お父様が内在できる精神の自由を取り戻して欲しい。我々の魂の中に御父様の在り様が活き活きと活動されるように自由を勝ち得て欲しい。

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