2009年5月5日火曜日

今日の想い 78

自分という存在が多くの犠牲の上に立っていることへの気付きと感謝、打たれ傷つけられる仕打ちを打たれて当然で傷つけられて当然だと甘受できる謙虚さ、感謝の心と謙虚な心の中に神様が内在される。当然の事として何の感情もなく受け入れていた健康な毎日が、ある日突然身体に異常を来たす。今まで経験した事のない頭痛に数日間襲われ、それがやっと引いた頃、今度は目の異常を覚える。視力が急激に落ち込んでいる。頭痛から目の異常という流れに流石に何かあると感じたらしい。妻の病はそんな状況から始まった。目が悪いから目医者にということで眼科にアポイントが取れたのが一週間くらい先だったか、医者に接見すると直ぐにも血圧異常を指摘されそのまま救急に直行した。そこで改めて血圧を測ると優に二百四十は超えていた。これ程の血圧異常に気付かないというのもおかしな話だが事実本人はそれほどの体調異常の認識はなかったようだ。一週間の入院で幻覚症状が絶えないほどの薬の大量投与で、無理やりにでも血圧を抑えたが、影響は既に内臓にまで及んでいた。腎機能障害との長い戦い、更に事実を受け入れる事から始まる内的戦いがそこから展開されていく。個人はもとより家庭を巻き込み、時間も意識もその事に奪われて仕事は手に着かず、出口の見えない暗闇に投げ込まれ、辟易する内的作業と格闘する日々が繰り返されていった。突きつけられるひとつひとつの結果をぐさりぐさりと受け、感情に翻弄されながらも次なる行動判断を迫られる。そう言った自分の容量を超えた魂の活動を強いられれば、誰であっても根源の存在を尋ねざるを得ないだろう。否応無く捜し求める中で気付きとして受け取るものがある。それが感謝の心と謙虚な心だった。良心の大きな側面である感謝の心と謙虚な心を磨いていけばそれが人生行路の羅針盤となる。どれ程迷い込もうが出口に繋がる糸が指し示され、辿り行くほどにやがては光の兆しを確認できる。その認識と確信が真の父母の意志の在り様として自分に備えられた絶対信仰だ。良心の活動こそ真の父母がそこに内在され活動されていることの証だ。

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