2009年5月16日土曜日

生命の木

聖書のいろいろな箇所で人間を木として比喩され記されている。創世記に出てくる生命の木や善悪を知る木から始まって、新約にもイエス様をぶどうの木、或いはオリブの木に例えられている。わざわざ木に例えられるのには理由があって、創造過程の人間進化として植物的な姿形を取っていた時期がある。今の物質組織としての肉体様相が本来の人間の在り様だと言う意見には疑問があるが、人間の姿形に関する限りに於いては本然の人間像と変わる事はない。頭があって胴体があり、そして四肢がある。悠久の歴史を遡っていくと頭を地中に埋め胴体や四肢を天に伸ばしていた時期があった。我々が目にする植物形態は当時の人間形態を見せている。そういう時期を経て地中に埋めていた根としての頭を起こし、段階を追いながら今の人間の形状になっていった。アダムとエバは植物の木に対して生命を得た木として登場した。いや登場するはずだった。それ故に生命の木として完成受肉したアダムは例えられ、善悪知るの木としてエバは例えられる。堕落によってルーシェル的要素が魂の中に入り込み、魂の情的活動を占領された。人間は欲望の木となり万物以下に貶められた。堕落の人間界に、接木される事で生命に繋がる事ができる生命の木として迎えたのがイエス様だったが、み言にあるように完全なる救いをもたらしてはいない。中世期に入ると新たな霊的存在が人類を凌駕していった。新たな霊的存在は魂の知的活動を占領する。霊的内容、内的内容をことごとく排除しながら五感で受け取るものだけが実質とされた。共産主義は極端な唯物思想であるけれど人類は押し並べて唯物観念に染められている。宗教や哲学でさえ唯物的な在り様に変えてしまった。魂体の感情領域、思考領域がこれらのサタンに凌駕されながらも、病や死、苦痛や困難と言った人間に負わされた負の部分を通して魂の中に意識する領域が築かれていく。この意識する領域こそ残された使命完遂のためイエス様に懇願され、神様の願いを受けて最終摂理を担われた御父様が、血と汗と涙で勝ち取られて行った領域だ。様々な儀式を行い宣誓式を発布されながら、現代の秘儀を高次の霊的存在を取り込みながら行われる。ルーシェルによって感情作用が発する胸を奪われ、別の霊的存在によって思考作用を行う頭を奪われ、人間の在り様は無意識的にそれらの存在の奴隷となっている。真の父母様がサタンの奴隷となっている人間への働きかけは、意識する魂として丹田を含む下腹部にある。祝福を通して骨髄に埋め込まれた真の血は、下腹部を死守しながら感情する魂体をサタンから開放し、思考する魂体をもサタンから開放していく。よって成約聖徒は、堕落性本性が活動する胸を生活中心に置かず、唯物思考が活動する頭を生活中心に置かず、絶対性の下腹部に感情動機、思考動機を持つ。絶対性に神様を内在し神殿としての下腹部に魂活動の動機を発する。

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