2009年5月3日日曜日

今日の想い 76

他の人の受け売りではなく、目に飛び込み否応無く受け取る無意味な世界でもなく、自我に根ざす魂の活動としての意志を働かせながら、見ようとし聞こうとする意志から本質を捕らえることができる霊的眼と霊的耳を具える。霊視と霊聴をもって取り巻く環境の本質に介入しながら、自我宇宙を創造し形成し家庭宇宙氏族宇宙、そして社会宇宙世界宇宙をも創造し形作っていく。そのような自我の理想、人間理想をおぼろげに夢見ながらも、しかしながら現実は、家庭はおろか自分さえも未だ掴みようが無く介入の仕様が無い。自分という存在に対する、神から来る宿命的使命があるはずなのに、それが何なのか人生半ばをとっくに超えながらも問い続けている。答えを得たい神の知恵を得たいという性急な願いが、まさぐっては放ち、味わってはまた別の対象に関わり答えを求めようとする。浮遊し彷徨う途上で何かにめぐり合えるはずだなどと言う微かな期待を持ち、流れる時を浪費していく。気を許せばいつの間にか自分に理解を示す霊に手を引かれ、迷宮の世界を廻っている。御父母様を見失い、自分の中に微妙なズレが生じ他の何かを求めている。神を見失いエバがいざなわれて行った様に、本質を求める誰もがいざなわれて来た深みがその先にある。求めに応じようと滑らかな口調の悪魔に魂を捕らえられ、甘い蜜を味わわされる。堕落人間の自我の幼稚さにサタンは付け入る。成長途上で神に対する絶対的な相対、即ち神の娘であり息子となるレールを外れていった。神の叡智だとして受け取ったものは擬似叡智であり、目にはよく美しく思えたものは真の愛に非ず擬似愛であった。擬似叡智から来る知識や知恵で築かれてきた社会や文化に、偽りの愛で繋がれて来た人間存在が生死を繰り返す。

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