2009年6月28日日曜日

今日の想い 87

経営の責任を持っていながらも、他の従業員と同じように自分のワークスケジュールを組み込み店に入る。その状態で営業を続けながら、何も問題が起こらなければそれでいいのかも知れないが、必ず問題は起こる。その問題を対処する責任がありながら、自分を営業プロセスの歯車のひとつに組み込んでいると何もできない。何も出来ないから問題は大きくなる。自分にもしわ寄せが掛かり従業員にもしわ寄せが掛かる。店は益々マイナスのスパイラルが深くなり、余程の大手術を施さない限り立ち直れなくなる。店の責任を自分が持つ、み旨に責任を持つと言うその意味が解っていない。営業プロセスに自分を組み入れることは当たり前だと思えるらしく、そう言う感覚になるのは、身体を動かさない限りみ旨をやっている気持ちになれず負債を覚えるからそうなのか、他の兄弟や従業員への示しがつかないからそうなのか、単に人手不足で自分が入らないと営業できないからそうなのか、兎に角現状として店の中に入り浸りになってしまっている。経営の意味が解り店に責任を持とうとすれば、歯車の役目から脱しないと何もできない。余程のスーパー人間でない限り、雇われ業務も果たしながらマネージャーの業務も果たせる人間はそういない。今まで何となくやってこれたからこれからも何となくやって行けるだろう位の意識では、状況は悪くなりこそすれ良くなることはない。経済状況は益々悪化し、本部からの要求は跳ね上がり、自分の体力は衰え、思考力も働かない。何かテコ入れしたくともまとまった資金の目処もつかない。ドン詰まりの状況でどうするのか。兎に角出発点に戻るしかないだろう。原点に帰って線を引き直すところから始めるしかない。それなりの風体は保っているのでそれを活かしてと思うかもしれないが、張りぼてに期待を持っても裏切られるだけだ。内的霊的なものを建て直し、み旨に沿うた形でビジネスを組み立て、魂の篭ったレストラン作りを為して行く。我々の時代はこれからだ。

2009年6月27日土曜日

リッチモンド店 報告 (2)

或る程度のレストランビジネスの経験がある者なら、買ってまでオペレートしたい物件ではない。マネージメント次第では復活するかも知れないが、売りに出ている物件が左マイであれば、わざわざ買わなくても倒れるのを待てばリースの移譲だけで事足りる。しかし彼は自分の店を持って一儲けしようと言う考えはなく、営業しながら生計を立てられればそれでいいと思っている。ではどうして彼はこのレストランを手に入れようと思ったか。生計を立てるだけであれば支払いの義務を負い遣り繰りに頭を痛めることを無理に選ばなくても、今まで通り誰かに雇われていた方が余程気楽なのだ。仮契約を終えてロイヤーと私を食事に誘ってくれた時に彼が話したことが印象に残った。彼自身は四十過ぎてはいるが未だに独り者で、勿論子供もいない。そのせいだと思うが、一人の甥を自分の子供の様に可愛がっていたらしい。合う度に遊んでやり料理を作ってやり、そして電話で甥に連絡する度に、甥が彼に薦めていたのが、早く自分の店を作って欲しいと言う事だった。その甥が不慮の事故で一年前に死に、いつも口にしていた事が気になっていたけれど、ふた月前甥の事に関する記事が新聞に載った。その同じページでうちの店の掲載が目に付いてこれだと思ったらしい。彼に言わせると、甥がこの店だと指差してくれたのだと言う。一般的な人であればそんな事で一年分の収入を投げ入れようとは思わない。自分の生活の事や懐に入る事を先ず考える。彼の今回の意志は自分の事や金や物への執着から行動を起こしたのではなく、甥への想いから行動を起こしている。愛する甥の為にという、為に生きる想いが動機となっている。それは我々が言う原理的なものと非常に近いと思う。売上だ利益だと躍起になって、御父様の願いがその根底に本当にあるのか疑わしい今の我々より、余程原理的であり心情が中心にある。彼に引き継いだ事で縁を切るのではなく、彼を伝道することで益々縁を太く強くしていくことを誓った。言葉しか入っていない食口と比べれば、心情が既に入っている彼には、言葉だけ入れれば十分なのだ。

2009年6月25日木曜日

リッチモンド店 報告 (1)

ランドロードから正式な買主の名での契約書が届き、やっと売り方である我々と、買い方であるレストランを引き継ぐ新オーナーとの正式契約に漕ぎ着けた。毎月の赤字が嵩み、任せていたマネージャーがお手上げ状態で本人に何の手立ても無い以上、かといって立てる新しい人材も持ち合わせていないのであれば、売却以外為す手はないだろう。何度も触れているように、経営不振だから手放すのが当然というような外的道理では測れない、それ以上に深い摂理的霊的道理で判断すれば、決して手放せるものではない。それでも外的な事柄に押される形で売却せざるを得ないなら、その過程を見守る者としては悶々とするものがある。その過程で様々な問題が噴出し、我々とランドロードとの間に入るエージェントが問題をより複雑にし、遅延し停滞し、この間の霊的内的闘いは楽なものではなかった。問題処理や尻拭いに新しいものを創る喜びや希望的感情は伴わない。後ろめたさや負債やら、頭を落とさざるを得ない感情を引きずる。買い手との遣り取りは今回が3人目だ。最初はある兄弟が関心を示し、最終契約まで漕ぎ着けたものの、引継ぎの段階で病気になり彼の士気が失せて流れてしまった。我々の手を一旦は離れるとしても食口であるなら御父母様の店に対する願いを引き継いでもらえると思い安堵したのだか、安堵した途端、ほんの一押しの試練で押し潰れてしまった。二回目は三十前後の若い女性がパトロンに頼んで自分名義の店を持とうとして話を持ち込んできたのだが、女性は女性で、自分で商売する気はなく、パトロンはパトロンで金の話になるとうやむやだった。それでこちらから断りを入れて、今回が三回目である。引継ぎの為に彼が店に入った途端体調を崩し、初回の悪夢が胸をかすめる、そんな試練から始まった。胃がきりきりと痛いらしく、他の件もあって私が尋ねた折には腹を押さえてうずくまっていた。しかし彼は打たれる事から来る、先々への不安に打ち勝った。原理を知らず、霊界を知らない彼であるけれど、彼の店に対する意志は明確で原理的でさえある。

2009年6月21日日曜日

今日の想い 86

人間は堕落性に満ち、醜い様相を曝し、臭い立つ悪霊臭を振りまいて生きている。自己弁護と自己擁護に奔走している自分も、堕落人間の一人として大衆の中に埋まり続けるなら、神様の目に留まる事はない。自分の堕落的様相を何の嫌悪感も抱かず、内面に居座る事を許しているなら、私は相変わらずサタンの奴隷であり、真の父母の子とは言えないだろう。自分の見え隠れしている良心が疼き、良心に押し出される形で、凝り固まった怠惰な性質に浸透された肉体が、その重い腰をやっと上げる。御父様の内面がそうであるように、正午定着の太陽として、自我の太陽の在り様、良心が自分の内面に輝いてこそ、御父母様と呼べる自分になれる。自分の良心がひとつの陰りも無く内面を明るく照らし、思考や感情、そして意志にも良心作用が直下的に働くことで、その魂に貫かれた肉体は神の宮となる。雲が厚く垂れ込め、遠くの景色が霞むほどに湿気を帯びた重い大気が、雷神の轟きに合わせて振り下ろす稲妻の剣でかき回され吹き荒れる。天の底が抜けたような大雨に大地が打たれる。何度か雨脚の強弱を繰り返しながら、小雨模様になるころには既に強い日差しが射し始める。天と地の間で繰り広げられる地上界の様相は、そのまま小宇宙としての私の内界に繰り広げられる。暗い悪なる霊が暗雲として垂れ込める。湿気を帯び、ねっとりした腕を巻きつけながら、偽りの自分への執着と言う底なし沼に引きずり込む。サタンの思うがままの状態から、悩ませる問題や事故病気といった分別剣が振り下ろされる。剣に魂をえぐられながら、強風に翻弄されるような苦悩や叫び、雨のように滴り落ちる涙が内界の嵐の様相だ。悶える嵐の様相を内面に見ながら、ひとつまたひとつと執着を削ぎ落としていくのだ。サタンに根を持つ執着心を削ぎ落とされた所から、真の父母に根ざす、為に生きる心が芽吹いてくる。自分の内面に良心作用が強く強く働いているという実感があるだろうか。正午定着の自我の太陽が、陰り無く内面様相を照らし出しているだろうか。

今日の想い 85

人それぞれ背負うものは違うけれど、積載オーバーと思いがちだか自分の器に収まる重荷だけを背負って歩んでいる。自分には抱えきれない程のものを背負わされているようで、隣の人の身軽さばかりが気になるけれど、受けた重荷の大きいのは器の大きさが認められたからであって、神様が私を頼りにしてくれていることを嬉しく思いこそすれ、不満や泣き言を言うのは本当はお門違いだろう。人生路程が幸福ばかりで満ちていて、愛や幸福の減少感を覚えないのであれば、私は魂を発達させる機会を見出すことは無いだろう。自我という自分をこの世に放り込み、喜怒哀楽の魂的経験をスポンジのように吸収しながら、次元を高める為の学びを得ている。学びは感情のUPDOWNを繰り返しながら、幸せと感じる時と時の狭間で学ぶのであって、幸せが不断無く続くのであれば、絶え間ない高みへの昇華を持ち続ける人間特有の存在としての意味は無い。降れば降るほどに七転八倒の苦しみを味わい、人間を辞めたい程に落ち込むけれど、絶対信仰絶対服従を供えるその場でこそ魂は成長し、新たな次元に生き、新たな器を用意する。今日という一日を与えられ、魂の冒険を出発する。朝に訓読を持って魂の闘いの準備をし、たとえどのような多くの困難、苦しみが襲おうとも私は正面から立ち向かう。弱気になれば魂は萎縮する。強く雄雄しくあり恐れたりはしない。そう決意して今日一日の冒険に出ればいい。一日の魂の旅を終えて床に就くとき、戦利品も奪われた事柄も報告しながら、善も悪も神の手に委ねて休めればいい。先の事を思い遣ってもどうなるわけでもない。今日一日は今日一日の事柄で足る。どんな雨でも必ず止んで日の射す時を迎えるけれど、新たな雨が新たな日の光を迎えるために雨脚を運ぶ。

2009年6月17日水曜日

今日の想い 84

この話が舞い込んできたのは霊界の共助によるものだと言う。霊界が働いているのはその通りだろう。逆に霊界の働かないところは無い。そしてその話を受けることでビジネスが成功することを、既に霊界が約束していると言う思い込みがある。本当にそうなのか。金のなる木がここにあるから買いなさいと誰かに言われて、そそくさと大金を注ぎ込む馬鹿はいないだろう。では霊界からここに金のなる木があるとお告げが来たとしたらどうなのだろう。もしお告げとして受けたのなら、告げた霊的存在は非常に胡散臭い。それを真に受けて資本を投入する。お告げは霊作用には違いないが霊界共助だとか天の運勢とは別物だとは思わないのだろうか。いい話が舞い込んできた、そのいい話とは楽をして金が入る話と捉えての事ではないのか。未だに御利益を頂く事が霊界共助だ、くらいの認識と信仰しかない。金を稼ぐ事がみ旨であり願いだという貧相な発想に捕らわれている以上、いつまでたっても事業体として発展することはないだろうし金すら貯まるとは思えない。舞い込んだ話に霊界が働いていて、一生懸命経営している既存のビジネスには霊界が働いていないとは言えないだろう。汗し涙している所こそ霊界が働いている。舞い込んで来る胡散臭い話に大金を投入するくらいなら、資金不足と人材不足で青息吐息状態を立て直す事の方が優先事項だろう。足元を固めておいて夢に投入するならまだしも、現場の把握もできず闇雲に新しいものに頭を突っ込むなら、その事業体は既に崩壊している。御父様の願いに心底応えたいと思っているのか、そうであるなら余程のビジネスセンスの欠如であり、さもなくば取り敢えず報告できる体裁を整える事だけに終始しているとしか思えない。

2009年6月16日火曜日

今日の想い 83

後ろの入り口から入ってこられるのだろうと思いきや、以外にも自分の席に最も近いサイドドアから入られた。開きドアが思い切り開くと、そこにお二人が立っておられる。どよめく歓声に、どれだけアナウンスが声を張り上げてもかき消される。満場の拍手の中、サイドを付き添われながら壇上へとゆっくり近付いていかれた。足がお悪くなったのはいつごろからだろう。事故があった以前からそのようであったと思う。歩幅を大きく取られ、颯爽と風を切っておられた時の姿が今のお姿と重複する。御父母様の姿を目で追いながら、過去の歩みを思い出す形で報告している。自分自身の事も、相対者や子供の事も、与えられている責任分担に関しても、顔を上げて誇らしく報告できることは一つもない。恥かしくて、苦しくて、申し訳なくて、どうしたらいいのか解らなくて、そして寂しい。皆のキラキラ輝く視線が御父母様に向けられているのに、ひとり寂しく肩を下ろしうな垂れる。歓迎の拍手がアナウンスの感謝の叫びと共に再度鳴り響く。自分も一生懸命応えようとするけれど、合わせる手が痛い。鳴り響く拍手が耳に痛い。負債一杯の自分は形だけでも皆に合わせようとする。涙は止めどなく流れてくるけれど、本当のところそれが何なのか自分でも良くわからない。寂しいからなのかそれとも悔しいからなのか、慕わしいからなのか申し訳ないのか、自分の肉体を借りる先祖や霊人達の想いがそうさせるのだろう。そうであれば、寂しく傍観している自分は隅の方で立ち竦んでいるのだろうか。あの時、始めての機会として、御父母様と敬拝する私ひとりが部屋にいた。私が敬拝を済ませても御父様は窓の方を向かれたまま一言も口にされない。御母様が何か囁かれる。口篭りながら何か言い返しておられるようだけれど、不満の表情は隠されないまま窓の方をずっと向いておられた。あの時の幾星霜もの御父様との距離を未だに縮める事ができないまま、目の前におられる御父様はしっかり御年を召された。四十年近い時を経ながら、未だに報告できる何も持ち合わせない自分は、怒鳴られ貶される事でしか御父様との直接的関係は結べない。しかしこれだけの御年になられた御父様に、どうやって願われもしない事柄を要求することができるのだろう。孝行息子は褒められることで父母と関係を結び、不孝息子は怒鳴られることで父母と関係を繋ぐしかない。どちらであっても父子の因縁は結ばれよう。御父母様の自分に対する顔色させ伺えない自分は、見え隠れする位置で恨めしく眺めるだけの存在なのか。御父母様、私も御父母様の息子ですと、影ながらにでも叫びたい。そうだ、そう叫びたくて涙が流れるのだ。子供の頃地団駄踏んで親の関心を向けたように、泣き喚いてでもそうできるなら、細い視線を一瞬でも投げかけて欲しい。

2009年6月15日月曜日

レストラン考察 4、(客は伝道対象者)

レストランに入ってくる客に接していると、多くを学ばされる。皆それぞれに雰囲気が違い持ち込む空気が違う。それぞれの持っている霊界があり一人一人の客の背後に相当数の霊人を伴っている。客は自分の意志として夕食を食べる為に何処に行こうか何を食べようか判断したつもりで私の店に足を運ぶわけだが、そう思わせている背後があることを認識してはいない。明らかに背後の霊人や先祖に押される形で店に足を運んでいる。だから視覚に覚える客当人に接しているという感覚と共に、それに伴う背後の霊人と接し、背後の霊人にサーブしていると言う認識を持つ事も重要で、そこに礼を尽くし、精誠を捧げる気持ちで接すると、客当人も理由はわからないが落ち着いた気分になり喜ばしい気分になっている。神様が長い間尋ねて来られたのが貴方であり、どうぞ御父母様から流れてくる真の愛を受け取って下さいという想いを込めて接し、食事をしていただきサーブさせていただく。一人一人の客とその背後にその想いを積み重ねていくことが精誠となる。店と客に想いを込めれば込めるほど、店は神霊に満たされ御父母様の霊を宿し真の愛が満ちる愛の家となる。霊界は御父母様との因縁を持たせたい為、どのようにも客を連れてくる。その確信を持ってこそのレストラン教会だろう。レストラン教会に取って全ての客は伝道対象者なのだ。以前担当していたレストランで知り合った客が、未だに私を訪ねてきてくれる。そこに霊界の働きと御父母様の因縁を見ざるを得ない。私が名前を覚えた客は天と因縁を持った人として既に記録されているし、離れることなく店に足を運び続ける。我々がどれだけ真の父母の代身であることを自覚し、神霊的意識を持つかで、店は霊的に生きもし死にもする。

レストラン考察 3、(レストランは教育の場)

信仰年数だけは長いので、いろんな部署を歩ませていただいた。軍隊調のところもあったり渡世人調のところもあったりで、この道に来なかったら現代社会でこれだけの生きた経験を積むことは無かったろう。長い下積みの末、やっと信仰生活の味わいを覚え始めたのがレストランだった。レストランは昔よく言われた3K業務の部類に入る。朝から夜遅くまで立ちっぱなしであり、一日中時間も行動範囲も拘束される。製造や流通と違ってサービス業は仕事の殆どが客相手であるため、他業種に比べればダントツにサービスに付き物である精神的苦労は大きい。真面目でおとなしい食口が多い中で、接客業が大好きだと言う人がどれ程いるだろうか。女性ならまだしも男性で表に出て接客業務を希望する食口は先ずいないだろう。それだけで十分十字架を背負っているように思えるのだけれど、更に売上だ利益だ何だと言われ、み旨を歩んでいるはずなのにどうして力が湧いてこないのだろうと誰しもが悩む。私もそんな思いを持ちながら歩んでいた時、そんな時を待っていたかのように従業員間の事件が起きた。そしてその事件以降その従業員が来なくなったと思ったら一ヵ月後に訴えられた。信仰も肝も据わっていない私は店長生命もこれで終ったと思った。訴訟という事態が巨人のように襲い掛かってくる。誰にすがる事もできず、苦しい時の神頼みで祈らざるを得なかった。祈って祈ってまた祈るしかなかった。そして目が少しずつ開けていった。明日のことは誰も解らない。恐らく神様だって解らないだろう。そうであれば自分で切り開くしかない。過去に遡って見ると、自分で切り開いてきた事柄が一つもないことに気付いた。そして何事に関しても常に躓くことを恐れていた。人生の中で躓くことは当然あるだろう。どんな成功しているビジネスであれ、大きくなれば大きくなっただけ躓きの経験も大きい。躓きを避けていたけれど、躓いて始めて学ぶものがある。躓き、悩み、苦しみ、もがき、そして目が開いていく。天の祝福はそう言った形で届けられる。来るものを受ける人生、受動的人生から自分から働きかける人生、能動的人生にシフトすると、今まで避けていたものが天の采配として自分の内面で化学反応を起こしながら、新しい自分に脱皮し進化していく。どれ程問題を抱えていようと、今日一日を与えられそれらに取り組みながら歩める喜び、目の前で私のサービスを受けてくれる客がいる喜び、内的霊的視界は一変した。

レストラン考察 2、(神の基地として)

アメリカでも多くの土地物件を買われているが、決して売り払うことを善しとはされない。サタン圏から復帰されたものを再びサタン圏には戻せない。そこには不動産にしろビジネス物件にしろ、金銭価値を尺度において判断する場合は理解できない、摂理的価値尺度があり神とサタンとの遣り取りがあるはずだ。だから御父様は少々価値が下がろうが赤字が嵩もうが絶対に売り払おうとはされない。百件前後あったレストランが今は三十件に満たない。その意味はサタン世界への敵地活動拠点がここまで減ってしまったという意味だろう。勿論、その経緯を説明するに、十分な言い訳が成り立ってはいる。赤字が嵩み二進も三進も行かなくなったので閉める。マネージメントが弱く従業員の問題が起こって閉めざるを得ない。周りに競合店が増えて客が減ってきたから縮小する。いろんな言い訳はそれなりに成り立ち結果として減ってきた。しかしその理由そのままを御父様の前で負債無く説明できるだろうか。今の現状という結果は、摂理に対する真意を測れずに外的表面的な事柄のみに左右されてしまった、我々にその程度の想い入れしか無かったからではないのか。御父様が摂理という復帰の闘いに生きるか死ぬかで臨まれながら我々に願いを託し、受けた我々はサタンの陣地に御父様の拠点、アベル圏としての拠点を死守し、更に増やしていこうという御父様の願いに立った強い想いがいつから無くなったのか、もともと無かったのか。神霊協会でありながら神霊を捨ててこの世のビジネス感覚に染まってしまい、摂理としてのビジネスなのにビジネスの道理を立てることが先でみ旨を合わせると言うのは本末転倒だ。御父様が摂理に立った価値を見ておられるように、我々も金では測れない価値を見ることができなければならない。

レストラン考察 1 (レストランとは)

伝道伝道としきりに言われる。個人伝道にしろ氏族伝道にしろ、一人の人間の人生観を変えるのはそう容易い事ではない。一本釣りで後は組織に入れてさえ置けば信仰が根付くと言うような簡単な事ではない。ケアしてケアし、投入して投入する、持てる以上の愛を注ぎ込まない限り難しいだろう。清平から担当の方が来られその話の中に、仕事の場でもある時間を決めて伝道する意識さえ持っていれば、敢えて伝道の為に路傍や訪問に繰り出さなくても伝道していることになるし伝道できると話しておられた。そう言う意味ではレストランは、サービスを提供する為に直接客に接しているし、わざわざ繰り出さなくても客の方から足繁く通ってくれる。伝道活動としてレストランほど最適な場所はないと思う。み言を語るにしても、相手に器が無ければ直接的なみ言を語っても砂に水を撒くようなものだ。み言が入るように一生懸命相手を愛し、サービスしながらみ言の器作りをしてあげることも立派な伝道である。最終的には御父母様に繋げてあげることを視野から外すべきではないが、しかしみ言を伝えたという唯の条件的形に囚われてはならない。大会に参加したとか教会に何度か来たとか、それで相手が復帰されたと言える訳ではない。直接的にみ言を語らないにしてもサービスや料理を通して真の愛を客に流している。行動で愛を示してこそ、口を忙しくするよりは余程御父母様の証となる。店主を中心として従業員は伝道者として動き、教会が神霊が宿る場であるなら、そう言う意識を持ったレストランにも神霊が宿って当然なのだ。レストラン教会と御父様が話された様に、レストランはより門戸を広くした教会である。レストランこそ献金もでき、生計も立てられ、そして伝道活動が働きながらにしてできると言う、まさしく摂理に適った場である。自分に取っても客に取っても、ここが神霊復興の場でありそれはレストランの名を掲げた教会と言える。私はここで敬拝を捧げ、ここで繋がっている客に想いと祈りを込め、ここで復興され、ここで教育され、ここで真の父母と繋がっている。

2009年6月13日土曜日

日本的食口

日本を離れて学んだ事の一つに日本人が装う冷たさがある。それは外的結果至上主義に起因してもいる。自慢できる外的結果を残す事が何よりも重要な事柄で、その為には手段を選ばない。切り捨てようが恨みを買おうが結果を残す為には全てが善しとされる風潮は未だに残っている。優しさや労わりや、愛に関する事ですらそれらは結果を残す為の謳い文句であり手段であり、優しさを装った冷たさであり、労わりを装った脅しであり、愛を装った裏切りなのだ。だから表面上は相手を受け入れているように見えても、その実バリアを張り巡らし心を許す事など滅多にない。他がどう思い、他を計りにかけることばかりを気にしながら蠢いている。体裁さえ整えば本質的なことであろうと何だろうとどうだっていいのだ。高校生で入教して卒業と同時に献身生活に入ったから日本社会がどうであるかは分からないが、教会内の社会ですら冷たいものを感じた。外は推して知るべしだろう。日本は恥の文化と言われるように、見せる結果を残せないことが痛恨の極みであり、失敗したハンコを押され他人の視線を浴びる自分という存在が許せない。切腹自害という、許せない自分を成敗することは至極当然の事であり、それでも収まりがつかないから連れ合いや家族まで巻き込む。それを美しいと思えること自体が異常なのだが、犠牲になることと恥かしく許せない自分を死に追いやることとは同じ行為のようで真逆の行いと言える。自害は執着の極みとしか言えないだろう。アメリカで歩む日本の食口にも多かれ少なかれ、そういった冷たい要素を持ち合わせている。御父様が言う為に生きるであるとか愛するとかが方便になっている場合が多い。アメリカではウェスタンの食口は勿論、韓国の食口に接する機会も多い。自ずと内面の違いは見えてくる。韓国食口ははっきりした物言いで責める場合もあるが、流石に情の国韓国だけあって付き合いは深く、内面に暖かいものや熱いものが伝わってくる。日本はその目的観念故に用いられている節もあるが、使命感ばかりが先走り、誰の為の使命感なのか何の為の使命感なのかも忘れてしまい走り続ける事がある。隣にいる兄弟が実に遠くに感じたり静かな冷酷を垣間見たり、その目にやいばを忍ばせていたりする。御父母様に対して真の父母として接するにも、触れたいようで触れたくないような、心を完全に開くでもなく、主君に仕える家臣の域を超えることも無く、真の愛を受けるにどこか決りの悪さぎこちなさを覚え、そんな日本人意識にどっぷり浸かった状態を抜け出し開放されない限り、四六時中御父母様と共に在りたい、兄弟姉妹と寝起きを共にしたいと心底思える天国人にはなれない。その意味では私も解放しきれていない一人のイルボンシックなのだ。

信仰路程

期待は裏切られるものであると誰かが言った。誰が私にそう囁いたのか思い出せない。こうあってほしいという期待を繋げながら、結局のところ期待は裏切られると言うのだ。期待は裏切られるものであるなら逆に実るものは何だろうか。その答えは信仰に違いない。期待は幻想で時の経過と共に霧散し、信仰は実質で時の経過と共に形を現す。しかしながら絶対信仰と気負ってみても、自分がどれ程移ろい易い者であるか、自分が一番よく知っている。だから信仰条件が必要になる。条件とは自分が信じ続けることが出来る為の、信仰確立の為に必要なのであって、条件を供えればそのまま願いの成就と引き換えになるわけではない。条件を供える事で、信じ続ける自分を維持できる。信仰とは信じられない自分との戦いなのだ。信じるべき自分とは、神様の真の愛、神様の真の生命、神様の真の血統を、血統転換式に臨むことで受け取った自分であると言う絶対的事実。我々は完全に愚かな立場であっても、神様に連なった事で100%以上の知恵深さを得、無限の霊界の絶対善霊、祝福先祖達が同伴者となり後援部隊になっている。巨人ゴリアテの前にダビデが立ち上がる時のその気分を、自分の器以上の願いをかけられ巨大に見えるサタン世界に対する時覚える者になる。ダビデを強く勇ましく立ち上がらせた神の霊が自分の中にも息づいていることを我々は実感しているだろうか。億兆のサタンに囲まれながらも臆することなく前進し突破してこられた御父様の霊が自分の中にも息づいていることを実感しているだろうか。御父様の息子娘であるなら、御父様に似たものになって当然だ。打てばお前が敗れ裂けるのであって私は破れ裂けないと言うこの鋼の思いこそ最強戦士である御父様から息子である私が受け継ぐ資性に違いない。信仰という闘いは避けては通れない宿命的課業であることを観念して認め、真っ直ぐ前を直視して歩みを進める者となる。

2009年6月12日金曜日

聖杯伝説

人間としての大きさは、受ける器の大きさに依るだろう。人間としての資質は、受ける器の質に依るだろう。知性の器を供えた者は与える知恵を得、感性の器を供えた者は与える情感を得る。人類が科学の発達をどれ程誇ろうとも、野の花一輪を作り出す知性すら持ち合わせない。野の花に潜む知性に対する畏敬の念を供えない限り、花という知性すら受け取る器は用意されない。あらゆる存在は知性存在でもある。万物様相をその輪郭や表面にかたどられたものとして捉えれば、その知性は隠れて姿を現すことはない。その内面に尋ね入ることを許される程に謙虚でない限り、その知性は受け取れないし受け取る器は用意されない。相対する悩む人も、何千マイルも離れた遠くに苦労する人々も、地上に住まう人間より圧倒的に多い霊界で呻吟する霊人たちも、それぞれの想いの中で呻いている。自分が味わい辛酸を舐めた以上のその人の想いを理解しその人を開放する為には、深い深い谷間に届く愛が必要になる。溢れる愛の器を用意する為には愛の主人である神様を感動させて愛の相続を受ける。宇宙創造の根底には神様の心情が動機としてある。心情衝動が絶対愛を持ち、絶対信仰絶対服従を通して、性相的高次存在を創造し、高次存在の持つ様々な性相様相が授受作用を為し実体化されながらそれらが形状化していく。根底にある基の基である神様の心情を捉えることが出来れば、全宇宙を所有できる。真の父母が真の父母である所以は、神様の心情を所有されておられることにある。神の心情が御父様という人間存在の中心である骨髄に浸透され濃縮されている。心情に通じるということは、二者が完全に溶け合うほどに一体化存在となる。そして、濃縮された心情エキスを受ける器が生命創造の役割を果たすところの、選ばれた御方である。聖杯伝説という聖なる器を捜し求めてきた歴史は、即ち聖器(聖なる生殖器)という、真のアダムが所有する神の心情種子を受け取る真のエバの聖器を捜し求める象徴的伝説を物語っている。今の段階で統一食口の器は決して大きいとは言えないだろう。資質をどうこう言える段階にも届いてはいないかも知れない。どれ程取るに足らない小さな器であっても、御父母様の心情の一欠けらでも受け取った者である、御父母様を通して新たに生まれ変わった者であると御父母様が認めて下さっていることが我々の絶対的な価値なのだ。

2009年6月9日火曜日

本体論

2013年までをどのように歩む事が最善なのか。御父様の願いをその心情動機そのままに熱いものとして受け取り、受け取ったものを湧き上がりほとばしる衝動に変えて、実体として証できるものとして創造する。上から追求されるままに行動しても、自分の意志が伴わない限り他人事の域は脱しない。誰に言われるでもなく受け取ったものを自分の切実なる願いとして昇華させない限り、願われもし押されもしたけれど、今までがそうだったように2013年の1月13日も溜息混じりに迎えざるを得なくなるだろう。後が無い後が無いと言われ続けた我々に取って、この2013年に対する願いも今までと同じ‘後が無い感’となりかねない。狼少年の話ではないけれど、どれだけ切実だと言われてももはやその言葉に反応することは無くなっている。今までの自分が捉えていた信仰観すら否定し、御父母様とみ旨に対する全く新しい捉え方を新しい信仰観として自分の中に備えることが必要だろう。新しい出発として本体論を頂いた訳だが、本体論を通して全く新しい信仰観が自分の中に或いは食口全体の空気感の中に目覚めなければならない。あまりにも急ぎ足で講義を進められたけれど、皆の中に本体論を受けたことで頂いた、新しい私と言う信仰体を成長させる芽が植えられている。今までの様々なしがらみの染み付いた柔軟性の無い固まりきった信仰体をこの新しい本体論的信仰体に変えることで、思考形態、感情形態を含めた自分自身が変わり、行動動機が変わり、環境が変わり、そして勿論霊性の開発が大きくなされていく。その過程を難なく進める為には、絶対性を骨組みの中心的核として自分の中に備え置くことが最も大切だと感じた。絶対性、即ち絶対生殖器を全ての核として、そこから発する生命でありそこから発する感情であり、あらゆるエネルギーが絶対生殖器から発っせられる。今までの性に関する感情や罪意識や後ろめたい気持ち、或いは堕落とは性の堕落として間違いを犯さないことのみが性に関しては重要だという認識、勿論間違いを犯さないことは重要であることは変わりないがそれを守って自己本能を押さえるのみに終始するのであれば、絶対性という御父様が伝えたい本質とは大きく違ってくる。第二の神としての祝福夫婦という神殿創造のブループリントやエネルギーの涌きいずる源が絶対性の中にある。夫婦生活の中に神が直接的に臨在され関与され創造される、その厳粛で神秘的で宗教に勝る宗教的儀式の空間がそこになければならない。ラスベガスはシンシティーだ。偽りの性、偽りの愛で、偽りの人間に蜃気楼を提供している。その雰囲気に影響を受けながら、性の衝動を相手に向けるとするなら、たとえそれが選んで頂いた相対であってもそれは真の愛が花咲く絶対性とはなりえない。御父様が語られる絶対性とは、そんな感覚的条件的なものとは明らかに違う。

2009年6月5日金曜日

今日の想い 82

誰がこの方を90歳と思うだろうか。久々の御父様の気炎万丈振りが映像から伝わってきて、よる年波には勝てないと思っていた自分は反省させられた。御父様御自身の気が広い会場を丸ごと覆い、まさしく気炎というに相応しい神霊の渦が場内を吹き荒れ、参加した全ての人々を飲み込み或いは貫通する。圧倒される聴衆は、開いた口からまさしく度肝を抜かれ、み言の炎に炙られ焼かれ、霊界に押されて訳も分からぬうちに頷いている。二時間を優に超える長丁場を休むこともなく、全宇宙のエネルギーが総結集されたように吼え続けられた。御父様にとって目の前の人々が過去にみ言に触れたことがあるとか無いとかは殆ど意味を持たない。誰であれ御父様の面前に現れる人に対しては、与えることに容赦はされない。常人であれば躊躇するような内容であっても、普通では隠されて見えない事柄の真実を直接投げかけられる。普通のこの世の次元では理解を超える内容に触れる時、正しい態度で臨むことで、御父様が真の御父様であることの認識を受け取る事ができる。こんな内容が理解できるるのだろうかと思うこの世的思考回路の頭で判断することを止め、下腹部に触れる内容に対して、恥ずかしい等の感情が涌き起こるその感情を捨て去り、純真無垢な赤子のように、何にも染められていない真っ白な態度でこそ受け取ることができるものがある。躊躇しておられる四大聖人の御夫人達を壇上から声高に呼ばれ、霊人との生活が事実としてあることを示されながら、霊界が地上に降りてきた事実を認識し、霊的な内容が地上に於ける影響に直接的に働きかける時代圏に入ったことを認識した者がどれ程いるだろう。会場のみならず地上の至る所で、億万の霊人の大群が押し寄せ、聴衆や大衆に入ったり働きかけたりしながらも、霊的感性が芽吹いていない者達はあいも変わらず目先の生活と空腹をどう満たすかだけが関心事なのだ。御父母様に侍っていると自認する我々も、明らかな環境変化にも関わらず、己が次元の小さな水溜りに没頭して、大海が目前に広がっていることに気付いていないのではないだろうか。