2010年4月4日日曜日

今日の想い 159

最後の正念場では、戦う相手は自分しかいない。結局は自分との戦いだ。目の前に現れて戦う相手の正体は実のところ虚像に過ぎない。自分の中で絶対信仰の基準とひとつになっていれば、霊的自己は揺ぎ無い泰山と化して、対する存在はありつぶでしかない。しかし不安と恐れに内的様相を合わせてしまえば、荒波の中の小船の様に激しく揺れ動き、対する存在は巨大な津波と化して襲い掛かる。要するに内と外とは逆説的にその様相に現れる。祝福を通して御父様の分霊を戴いた自分であることの証明を立てる時が必ず来る。一生の間に何度か来るその節目節目に於いて、しっかりと証しを立てる自分になることが大切なのだ。結果への執着を捨ててひたすら自分に向き合いながら、自分の今の内的様相を把握し、主管し、強化する。弱さは硬さでありもろさとなる。強さは柔軟であり変化に対応できる。この世で強きものとして見られている全ては弱さの裏返しとして表れている。権力や財力への執着も恐れと不安がその根底にある。恐れと不安という弱さをどうやって乗り越えることができるか。実は堕落したその時に、ルーシェルによって魂に書き込まれたものが堕落の血統を受け継ぎながら受け継がれている。恐れと不安という弱さが魂に閉める割合が堕落本性の割合を表している。時として魂が堕落的在り様であることを思い知らされる。しかし祝福を受け御父様の分霊を戴いたものは堕落的魂の部分に対抗する本然の魂の種火を見出すこともできる。内なる御父様の存在である本然の魂に光を当て続けることで堕落的魂を凌駕できる。人生の節目節目に於いて訪れる試練は堕落的立場からすれば災難ではあるけれど、本然の立場から見れば大いなる祝福だ。その試練に立ち向かうことで堕落的魂を大きく退け本然の魂が大きく成長する。回りくどいプロセスを言うまでも無く、試練は恵みだとその言葉通りに受け取れればそれでいいのだけれど、許容範囲を超えるような試練は必ず訪れるし、その試練を超えるためにはみ言でこそ照らし出される深い知恵が必要となる。

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