2010年4月15日木曜日

責任者

御父様に喜んで戴きたい、中心に良い報告をしたい、その思いが間違っているとは言わないけれど、その場その場の報告で中心の気を引いて済ませても侍ることにはならないだろう。良い報告をしたいのは人情としてわかるが、御前でいい顔をするのが侍ることではなく、決意と覚悟を持って意志を差し出すことこそ忠孝の源と讃えられた日本食口の姿だと思う。言うにおこがましく非難を覚悟で敢えて言う訳で、今までの責任者にそれだけの侍る覚悟があっての今の状況だろうかと思うことがある。み旨の現場や最前線で歩む兄弟姉妹達の歩みや想いを活かすも殺すも責任者にかかっていた。私も今、ひとつの責任ある立場にある。直接御父様に報告する訳ではないが私の采配で従業員の歩みを活かすことも出来れば殺すこともできる。先ず責任者は上に立っているという認識は捨て去ることだ。権威意識が少しでも自分の中にあるなら責任者として相応しくなく、やがては権威が自分を裁くことになる。共に歩む者達の僕として、私の位置は私が決めるのではなく共に歩む者達が決めるのであり、天がそれを認可する。霊的階級を言うならより高次の霊的存在が高みから指図するのではなく、高次の存在になればなるほど心を砕き精神を尽くして働くのが天の道理だ。イエス様にしろ仏陀にしろ霊的高みの安楽な位置で、善きに計らえと踏ん反り返っているのではなく、より心を砕きより精神を尽くして、即ち精誠の限りを尽くしてみ旨に協助しておられる。上の位置に立てば立つほど僕の位置に下るべきだという認識を備えた者こそ、天は責任者として用いられる。誰よりも心を砕き、誰よりも精誠を尽くし、誰よりも食を少なくし誰よりも睡眠を少なくする。誰よりも動いて誰よりも働き、誰よりも汗して誰よりも涙を流す。そうして初めて為に生きるという言葉を理解できるようになる。

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