2010年4月8日木曜日

キリスト教国家アメリカ

アメリカに移動して既に四半世紀を超えようとしている。今までの人生の半分をここアメリカで過ごしてきた。未だにおぼつかない英語ではあるけれど、アメリカで家庭を持ち、アメリカで子供は生まれ育ち、アメリカで妻は移植も受け、そしてこのアメリカで、信仰も含めた多くを学ぶことができた。外的に言っても日本に次ぐ第二の故国であり、内的に言ってもアメリカは第二の故国だ。韓国が儒教の国であるようにアメリカはキリスト教の国であり、国家的な信仰の火は弱くなったとしても民衆にキリスト教精神は宿っている。御父様に繋がる牧師達の話しを聞くなら、愛を謳う言葉の中に信仰の火が絶やされずに燃えているのを受け取ることが出来る。アメリカでより信仰的になることができたとは言えないけれど、風土にも人々の心にもキリスト精神は宿っており、それに包まれて暮らすことで自ずと日本との違いを嗅ぎ分ける。日本で暮らす内的様相とアメリカで暮らす内的様相には大きな違いがある。日本に隣人愛や平等意識は基本的に魂様相に含まれてはいないが、アメリカにはそれがある。日本人がアメリカで暮らして感じるのは、内的に締め付けられ枷をはめられていたものが取り払われ、隣人愛や平等意識の風に内的羽を広げて自由を得る。それが堕落的な羽を広げてしまって、内的生命の命取りになることも見て来たが、分別する力を備えることでイエス様が示された愛の光を魂の中に受け入れることが出来る。勿論その段階に留まるのをよしとすることはできないが、私のような弱い魂の成長には成約のみ言への足がかりとして、キリスト精神のステージに置かれたことは大きな恵みだった。摂理の要求そのままに応えているとは言えないが、キリスト教国家アメリカの良心に内的霊的にも支えてもらった私としては、アメリカが再度御父様に強く繋がる道を模索しながら差し出すことが、当面の私の使命だと思う。

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