2010年4月2日金曜日

今日の想い 158

手を広げられ、数理の説明からみ言葉を始められた御父様は、幾分か疲れておられるように思えた。久々にDCに来られた御父母様は、五時丁度ホテル十五階の部屋に入ってこられ皆の啓拝を受けられると直ぐ、マルスムを始められる。九十の齢であちこち飛び回られながら、それでも朝五時からの訓読会を欠かされることはない。日によってはお昼近くまで話されることもよくあるし、いつ休まれるのだろうと思えるほどのハードスケジュールだ。語られ始めると直ぐにもエネルギッシュないつもの様子を取り戻された。話される内容もさることながら、とにかく毎日話され続けてこられ、話す相手を選ばずに今日も話される。御父様の生涯は語って語って語り続けることだ。語ることが与え続けることであり、与えたい想いが言葉の中に凝縮される。貴いそのみ言葉を受ける器も持ち合わせずに、来いと言われたから来たとしかいえない者達を前にされながら、それでも与える言葉を出し惜しみされることはない。そうであればこそ余計に語られようとされる。み言葉のシャワーを浴びせながら、春雨によって生命の目覚めが喚起されるようにいつかこの者達が必ず本然の自我に火がともされる時が来ることを信じて語られる。御父様に取って語られることの背景に我々に対する絶対的な信頼がある。御父様が我々に絶対信仰を願われるように、我々に対して御父様は絶対的信頼を寄せておられる。御父様は好きで語られるのでもなく、条件や修行として語られるのでもない。信じる我々に対して親としての精誠を捧げておられる。御父様の話されるのを、何の情的喚起も起こさずに受け続けるのであればどれ程申し訳ないことだろうか。私に対する御父様の想いを地に捨て続けていることになる。そんな者達にさえ語って語って語られる。与えて与えて与えつくされる。肉を削り、骨を削り、魂を削られながら与え続けられる。

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