2010年10月31日日曜日

今日の想い 221

人間の身体形状を見るときに、胴部と四肢は宙である宇宙を形状し、頭部は天である霊界を形状している。簡単にいうと消化器系などの器官系は首から下であり骨の外にあるのに対し、脳神経系は首から上で頭蓋骨や頚骨などの骨の内部にある。頭蓋骨は先端の脊椎が膨らまされた状態であり、脳は脊髄と同じように骨の内側にあると言える。骨を境界として外側が外宇宙であり内側が霊界に通じる内宇宙だ。私という小宇宙は外宇宙と内宇宙がある。外宇宙が胴部と四肢なら太陽にみる恒星的な器官があり火星や木星にみる惑星的な器官もある。太陽の周りを惑星が巡回しているように、血液が心臓を中心として各臓器を巡っている。頭部を形成する内宇宙は心魂の活動領域だ。感覚器官を備えて私と言う太陽系以外の情報を得ながら心魂の活動を為している。霊界の在り様が地上世界の在り様に反映される。内宇宙の在り様が外宇宙に反映される。肉体的様々な症状を抱えているということは内宇宙の在り様に問題がある。心魂の活動に問題がある。人間は堕落することで、神様に繋がる経路を絶たれている。経路を絶たれた心魂は糸の切れた凧状態であって堕落した様々な霊に委ねて活動するしかない。私と言う内宇宙は悟ってみると見事なまでに堕落的中心、即ちサタンを私の内宇宙の中心に置いて活動している。時計が時計としての本来の活動をする為には、中心的ギアが正しく位置される必要があるし、第二ギア第三ギアと順にはめていく必要がある。第二ギア第三ギアが逆にはめられても後に続くギアはそれなりにはめていけるかも知れない。しかし最終的に時計としては動かない。人間の本当の中心的ギアの存在に正しく会わなければならないし、絶対信仰、絶対愛、絶対服従のギアを正しくはめていく必要があり、それで初めて心魂の活動は正しいものとなっていく。内宇宙が正しく存在すれば外宇宙である身体も本来的健康を取り戻すはずだ。御父様は太陽に対して地球の自転が逆周りになってきたことを指摘されている。本来の自転に戻す為に、ある時点で八の字を描くように元に戻されなければならない。宇宙の大変革がなされて地球自転の正常化がなされる。その瞬間を間近に迎えているけれど、私達それぞれが御父様に対して正しく自転を正常化させたかどうかを問われている。信仰年数をどれだけ重ねても、御父様に対する認識を根本から変えない限り、私と言う宇宙は正しくギアをはめられない。

泣ける幸せ

涙を溜めるための涙の器が私の中にいっぱいある。切ない想いは切ない器にひと滴(しずく)ずつ溜められる。悔しい想いは悔しい器にひと滴ずつ溜められる。哀しい想いは哀しい器の中に、寂しい想いは寂しい器に溜められる。器がそれぞれの想いで満たされると、溢れて涙となって頬を伝い落ちていく。笑える幸せがあるように、泣ける幸せがある。ただ笑って人生を送りたいと普通であれば思うけれど、涙を流す体験の中には、別の幸せがそこに隠されている。涙を流してこそ内面に溢れるものがある。内面に溢れるものを心情という。心情はマイナスイオンの塊だ。内的なマイナスイオンの塊が内的なプラスイオンを強烈に引き付ける。プラスイオンである神様の心情圏が引き寄せられる。涙が流れるところに神様は尋ねざるを得ない。泣ける幸せは神様が尋ねてくださる幸せだ。食口であれば苦労につぐ苦労を何重にも重ねてきた。当然この世の人たち程の蓄えもなければ知恵も力もなく、同じ地上を生きてきたとは思えないほどの他との違いを自分に見ざるをえなくなった異星からの浦島太郎だ。だけどそれでいい。病に冒され明日の生活希望さえ失いかねない生気のない浦島太郎でいい。やがて滅びる堕落的なこの世に何の未練もない。私は新しい時代、新しい世界を生きて羽ばたく蝶になる。この世にしばしの間足を踏み入れた浦島太郎は、新しい生のさなぎの姿だ。ゴミと見間違うほど生気のないさなぎから蝶は出てくる。疲れ果てて何も残っていない私だと自分でさえ思っているけれど、私達の中には祝福を戴いて蘇った生命の木が育っている。私の中の生命の木は流す涙でもはぐくまれ、尋ねてくださる神様の心情圏の愛の光でもはぐくまれる。笑える幸せがあるように、泣ける幸せがある。泣ける幸せは新しい私が育つ幸せに繋がる。

2010年10月29日金曜日

朝日に想う

朝日の刻々と昇る様子を顔を上げて対面しながら、私が太陽の力を受け取るに相応しい存在になっているだろうかと問うことが出来る。砕けて言えば、お天道様に顔向けできのるかと言うことだ。東のブラインドを開けると道の向こうの木立の上から、ひときわ円周を大きくした太陽は上っていく。学校で刷り込まれた機械的無機質の太陽概念は捨て去って、感情の波が収まった早朝の内面に、直接朝日の印象を取り込んでいく。その印象に触発されるものが私の中から湧いてくる。魂の中に入り込んだ雑多な霊が私の感情を揺さぶり弄びながら、それに翻弄されてせわしい呼吸を繋いで毎日を送っているが、その位置に神霊が関与する実のある霊の呼吸はなされない。受け取る朝日の印象の中でこそ活力ある実のある霊の呼吸がなされる。高く上り始めればそのまぶしさで直視できない太陽も、朝日のうちなら目を大きく見開いて対することができる。まだ起ききっていない身体を朝日に曝せば全ての細胞に光が届けられて、眠気は消えうせ足はしっかりと大地を踏みしめる。当然のように、意識もせずに光届く朝を迎え惰性的生を送っているけれど、太陽が存在してこそ自我意識が備わり、主体と対象の世界が私の中にも外にも広がっている。主体の位置では主体の役割をしっかり担いながら愛を与えて太陽と同じ位置に立ち、対象の位置では存分に愛を受けて太陽の相対に立つ。それでこそ太陽をめぐる地球の一存在としての地上生活を送っている。毎朝できるだけ朝日を浴びて一日の出発をなし、御父様がみ言を語られ人類の太陽となられて真の愛を照らされるように、私も愛を与えるひとつの光源体となることを願われている。

田舎の秋を想いながら

薄綿のような雲がパステルブルーにたなびき、山々の木々はそんな背景を背に黄金色の衣を装っている。太陽も随分南よりの経路を西に辿りながら、視線の角度とそう違いない位置から柔らかな光を宛がえば、黄金色の衣装は更に金色に輝く。神楽の舞子の衣装を木々に着けて舞わせる様に、金糸の刺繍で浮き上がらせた龍が踊っている。風が渡るに合わせて龍はうねり、山々の表を葉の摺り合う音を立てながら這って行く。去年は重ねて降り続く冷たい秋雨に、色付くのを待たずに打たれてあっけなく枯れ落ちてしまった。今年の秋の見事なまでの色付きを視覚を通して取り込めば、去年と今年の明らかな印象の違いを読み取れる。今年は豊年満作だ。光の中に、空気の流れに、神様や高次の霊的存在達の満足感や歓びが満ち溢れている。視線を落して私の周囲を見回せば、病を始め山積みの問題が相変わらずひしめいてはいるけれど、天が喜び祝いの宴がもよおされているならそこに同参させて頂いて、祝いの気持ちを差し出すべきだ。天が喜んでいるのに私が塞ぎこんだままでいるのはよくない。今年は実体み言宣布を韓国、アメリカでされて、天宙のすべての境界線が撤廃され、天地が神様の統治の下に永遠に存続していく。今日の秋晴れのように淀みも霞みもなく、神様がどこまでもどこまでも見渡せる霊界になったということだろうか。あまりにも無知で御父様が語られ宣布される意味も価値も解らず、立ち尽くして口を開けたままの不甲斐ない私であっても、心からの御祝いの気持ちを供え続けることで同じ立場で同参することができる。神様が喜ぶとき私も喜んでこそ堕落圏から抜け出ることが出来る。田舎の秋の、野山の彩の中で、太鼓がこだまし笛の音が響くあの秋祭りの高揚を、今心の中で再現しながら天の歓びに合わせて舞っている。

2010年10月28日木曜日

更に霊界を考える

霊界がわからないと言う。”私が霊界を背負っている”というみ言を指し示し、霊界は背負えるものなのかという疑問を持つ。”私の中にある霊界”という認識もできなければ、ましてや霊界を背負うという意味は更にわからない。地上的な認識方法をそのまま霊界に対する認識に当てはめようとするから辻褄が合わなくなってくる。五感では認識できない世界が存在することは理解できても、非常に漠然としたものであって地上生活ほどの現実感を持って霊界に対している訳ではない。霊界が主体であるけれども依然として現実性の高い地上界に意識の大半を置いている。私達は私を中心として外界と内なる世界を認識している。外界に於いては色や光、音や匂いなどの感覚体験を持つがその背後の世界を窺い知ることは出来ない。内なる世界に於いても限界があり、快不快、喜怒哀楽、情熱や欲望という魂の営みがあることは感じることができるが、その背後に隠された深層に入り込むことは出来ない。外界に於いても内界に於いても、それらの人間知覚の限界を超えた先に霊界はその様相を現す。私達が外界に知覚しているもの全ては未知なる霊界の顕現であり、内的に知覚する魂の営みの全ても霊的存在の顕現だ。私の魂を舞台にして様々な霊がその本質を現している。外界にも内界にも私の知覚の及ぶ限界があればこそ、地上生活をまともに(?)為して行く事ができている。今の現代人に取って準備無しに感覚世界を超えれば、ちょうど薬で自我を麻痺させ、限界領域を無理にでも超えて幻覚の中に意識を泳がす者のように、自己破滅を来たしてしまう。しかし知覚領域に於いて感覚を粗雑なものにしたままでいるのは、外界に顕された霊的存在の叡智に触れることが出来ず、外界に愛や心情を見ることができず受け取ることも出来ない。外界に対して愛を受け取り愛をもって関わりながら、私の内界という小宇宙を愛で満たし愛で脹らませている。それが生の領域を超えた時に、私を中心とする外界と内界は反転して、培った内的なものが周囲に存在し輝くようになる。その意味で、私は生きている間霊界を背負って生きている。

2010年10月24日日曜日

紅葉の時期に

春の気分として、芽が出て成長する様の中に生命と精神が混然一体となっているのを感じる。それに比べて秋の気分は葉が色付いて枯れ落ちるように、枯れ落ちた地上存在を後にして分離した精神が高みに昇り生命要素は解き放たれるという、精神と生命の分離だ。春に一体となっていた正の位置から、秋の精神と生命の分離を経て、新たな合成一体の種子を作り出す。正分合の作用を為しながら分離されていく精神と生命が、次のステージを生きる種子に刻印していく。春の気分の青年期を経て年を経るに従い、次第に人間の関心は外的肉的生命的なものから内的霊的精神的なものへ比重を移していく。そうしてやがて自らの生命要素を完全に解き放って己の精神は高みに昇華する。色付く紅葉の中に、風に誘われるままに生命の基である枝から己を切り離し舞い落ちる枯葉の中に、青年期を遠に過ぎた私自身が映り出されている。壮年期の私がそこに映り出されており、老年期の私がそこに映り出されている。それを見て物悲しい感情で魂は染まるのか、或いは精神の実りを色付きとして受け取り、静かな晴れやかさで魂を満たすのか、それはひとりひとりの人生をどれだけ誠実に、精誠を込めて、真剣に取り組んできたかによるだろう。この歳にして未だにこの世的なものへの執着を持て余し、分不相応な必要以上のこの世的扱われ方を欲する私には、明日にでも散り落ちるだろうに見事に色付いて己が生き様を燃え尽くした晴れやかさが心に眩しすぎる。季節それぞれの自然の姿を、その内的な意味するところも知らずに年月を重ねてきた恥かしさを、この歳になってやっと気付き始めている。秋が深まりその中に佇むと、燃え立つ紅葉は精神の昇華の色だと認識できる。

2010年10月23日土曜日

今日の想い 220

人間は五感から受け取る印象の中に埋もれながら自分自身を見出せないまま生きている。外界から受け取る情報の全てを遮断すべく五感の触手を消し去られた時、それでも残るものは私は私であるという感覚だ。私は私であるという感覚はあるけれども、その私は一体何なのかを知らないし尋ねようとはしない。五感から受け取る印象を魂に反射させながら、その活動を私だと認識するに留まり、その奥に尋ねて行くことはしない。外的に或いは内的に、何らかの形で人生が特異なものとなり、意識を感覚世界に留めることに疑問を覚えて意識の光を別の世界に向けた者、即ち宗教的に目覚めた者が私の存在を突き止めようとする。私が神様に直結する私という存在であることを、どれだけ認識しているだろうかと私に問わなければならない。伝道され、み言を聞き、御父様を再臨のメシヤであり真の父母だと認め、み旨に歩んでいる私だという認識はあるかのように思える。しかしそれは極めて曖昧なものだと言えないだろうか。日々の現実以上の現実性を供えたみ言であり、真の父母との関係であり、み旨であるのかと問うならばどうだろうか。私の中にみ言的言葉は響いているけれど生活実感以上に響いているかといえば首を傾げざるを得ないだろう。内面に意識の光を更に照らしながら、私と神様との接点をより太いものとし、より強いものとする。私と神様を繋ぐ神経としてみ言を体恤しながらみ旨を歩む中で筋力を付けていかなければならない。私が神様を認識出来ると言うことが、神様が私を認識しているということだろう。五臓六腑や四肢、感覚器官が神経中枢に繋がってこそ完成人間体と言えるように、全人類が繋がってこそ神様の実体として完成されるはずだ。私が神様の身体の一細胞であり一部分であるなら、私は神様の身体のどの部分を築く役目を担っているのだろうか。

2010年10月22日金曜日

ひとつの信仰観

自分などは本来今の世で生きてはいけない部類の人間に違いない。どういう訳か一応責任ある立場に置いて頂いてはいるが、誰かの援助なくしては一日たりとも現代社会の複雑さを掻い潜っては行けないだろう。つくづくそう思う。何をするにせよ単純には行かず、大小の問題が起こる度に解決のための案もプロセスも見通せず途方に暮れ、物事を順序だてて考えることすら出来ずにいる。誰かに意見を求められても、言葉を選び論理だって説明することへの困難に対する不安で緊張し、頷くか頭を傾げるか位が関の山だ。本当に今まで息を繋いできたのが不思議なくらいだ。だから自分に生きる力があり、世間にかけあう実力があるなどと思ったことはただの一度も無い。しかし私にとってはこの自分の無力こそが最大の力となってきた。自分の無力を骨の髄まで認めているから問題が生ずれば何処までも自分を否定できるし全てを委ねるしかない。要するに私の信仰は苦しい時の神頼みそのままなのだ。事実泣き叫ぶままに神様も困り果て、条件もないのでおこぼれを戴きながら息も繋ぎ信仰も繋いできた。悪霊に取り憑かれている娘を救ってもらいたくて、母親がしつこくイエス様と弟子に付いてくる話が聖書のマタイ伝ある。イエス様はイスラエルの家の滅びた羊以外のところに私は遣わされていないと言うと、その女はイエス様に懇願するが、イエス様は子供達のパンを取り上げて子犬に遣るのはよくないと更に言われた。女は食い下がり、その通りだけれど子犬でも主人の食卓からこぼれるパンくずは頂けると言った。イエス様はそこに女の信仰を認めて女の娘は癒された。この聖書の話こそが私の信仰観だろう。御父様は私達を息子であり娘と認めておられる。だからどれ程罪多く、条件も無く、乗り越える力もない私でも、御父様にしがみ付きとことん食い下がることができる。それが私達の救いだ。穢れ果てた糞尿まみれの私でも救われるのだ。御父様はどんな状況であれ私を突き放すことは出来ない。御父様が私を息子と認めそれを翻されることはないからだ。

2010年10月20日水曜日

概念

私達がさも当然のように受け止めていた概念のひとつひとつを、掘り返して今一度み言の光に照らし出さなければ、私の中でより本質に近い概念として認識し、内的建築を創造していくことはできない。私が私として認識している私の概念から始まって、内的な事柄、外的な事柄全てを問い返しながらみ言に照らされて消え失せることなく存在できる概念として納めない限り、頑張ったつもりではあったが振り返ってみると跡形も無く消え失せてしまっているということになる。信仰だみ旨だと言いながら何の内的外的功績も残せずに終えることになるかも知れない。大方のところ堕落世界で培った堕落的概念であり認識が殆どを占めているので、ひとつの概念を何度も何度も掘り返し、その都度み言の光に照らし出してやっと本当の概念に近付いていくことができる。その意味で私は何度も何度も否定されなければならない。否定される度により堕落的なものが削ぎ落とされ、本質に近付いていけるのだと思う。特に職場やビジネス業務に於いて、この世的道理の中でひとつの歯車として埋没し、そこにみ言で照らされる概念を持ち込むことができないなら、堕落的ベルトコンベアーに乗ったままの時間を刻み、堕落的空間を広げているということにはならないだろうか。お金の概念であるとか、売上げや利益の概念であるとか、或いは労働の概念や全ての事柄に関して、み言に照らされてしっかり反射される概念を持ってこそ、真にみ旨に繋がり神霊の神経として神様の意志に通じる歩みとなる。物事に対する私の概念が変わるということは私の思考が変わることであり、思考によって人は組み立てるし創造する。神霊の神経が繋がる概念であってこそみ旨に叶う創造的歩みが為せる。

2010年10月19日火曜日

色彩

彩り溢れた色彩が感情生活を豊かにし、喜怒哀楽を紡ぎながら私の人生を織り上げていく。子供の頃の思い出は特に色彩に溢れている。空の青、田んぼの緑、稲穂の黄金色、そして夕焼けの茜色。子供の私が目にした情景の色合いからその時その時の体験した感情が引き出されてくる。私の中で色合いと感情が繋がっているように、季節が差し出す自然の色合いのなかに宇宙の感情が表現されている。宇宙の喜怒哀楽が自然の色合いを表情としながら私に働きかけている。この世に於いて、吐き出すままにばら撒かれた出版物や映像で人の視覚が占領されれば、集合人間の意図と念が込められた猥雑な色合いで人の魂は満たされる。一時私達は洗脳されたレッテルを貼られたことがあるけれど、私からすれば我々を指差す彼らこそ猥雑な色合いで魂を満腹にされながら、目に見えぬ悪霊に洗脳されている。自然を遠ざけて人間社会という色の洪水のなかに身を置けば、いつしか渦巻く雑多な色合いに魂は浸透されて、自然の色合いに見る宇宙の感情を受け止めることはなくなる。相手の表情からその感情を受け取るように、自然の表情から宇宙の感情を受け取り私の魂が共鳴するなら、宇宙が喜んでいるなら私も嬉しくなるだろうし、宇宙が悲しめば私も涙が流れてくるだろう。その位置で神様を信じるとか信じないとか、み言葉が正しいとか正しくないとか、そんな判断や思考は意味が無い。宇宙の感情に同参し、宇宙の思考を共有しながら、同じ創造理想を掲げていく。神様が喜べばどんな色合いで表現され、神様の悲しみはどんな色合いで表現されてこられたのか。神様が解放されて初めてこれから表情として表される色合いが示されるだろうし、堕落を初めとする神様の過去の悲しみは失意の中で表す色合いさえ失われてこられた。神様不在の死んだ色彩の世界だったものが、生きて働きかける生きた色彩として受け取れるようになる。

2010年10月16日土曜日

秋祭りを終え朝晩めっきり寒くなる頃には、明け方霜が降りる。広く見渡せば薄く雪が覆っているような景色に見えるけれど、近付けば葉に付いた霜、木に付いた霜、いろんな表面に付いた霜それぞれに特有の表情を見せている。特に窓ガラスの表面に氷結した霜は、はっきりとした意図を持って描いたように、唐草模様だったりシダの葉を広げた模様だったり、或いは花を咲かせて見たり雪の結晶だったりと、氷の精が筆を持って描いたとしか言いようが無いほど緻密に美しく仕上がっている。暖房施設もない隙間だらけのあばら家で、起こされても暫くは布団の中に蹲っているのが常だったけれども、布団から抜け出る決意を促したのは、朝、ガラス窓に描かれる模様の美しさを目にしたいという心引かれる気持ちからだ。どうやってその模様を写しこむのかその工程を見たいと何度か早朝起床しようと思ったが、明け方になると眠気に負けて失敗に終った。最近はネットで検索すれば霜の氷結した画像をいくらでも目にすることができるが、しかし本当の美しさは、自らが氷結する同じ寒さの中に佇んで目にしてこそ伝わるものだ。氷点下の、痛みさえ覚える寒さに身を預けながら、生命的な全てを否定されても残るる美しさ、即ち魂を超えた美しさが描かれたものから伝わってくる。数理の美しさ幾何学の美しさに通じるものが氷結の中に見て取れる。それに相対するには喜怒哀楽を追い遣って、自身をひとつの岩だと思えるほどに専ら感情を削ぎ落として見えてくる美しさだ。人の描いた絵とガラス窓に氷結した絵を比べて受け取る印象の違いを観察すれば、地上生命の存在と宇宙存在の違いを感じることができる。堕落的なものが一切関与しない億星霜を超えた宇宙的感情を垣間見ることができる。それは光が関与して描くものではなく、宇宙振動、宇宙波動として宇宙の音を司る神霊が描き出すものだろう。描き出されたものを通して宇宙が表現されているに違いない。

今日の想い 219

昨日は夜が明けぬうちから日がな雨模様だったが、暮れかかる頃にやっと降り止み、一夜開けると空の遥か高みまで見通せる秋晴れとなった。湿気を含まない秋風が時折身体を撫で、撫でられる度にいろんな感情で湿った重たい魂を軽やかなものに変えてくれる。秋には秋を司る神様(霊的存在)がいて、他の季節では味わえない秋特有の気分を味わうことができる。昨日は六千双祝福記念日だった。少し痛みが和らいだ妻が、雨も降り止んだので外に出てみたいと言うので、娘と三人で近くの韓国レストランへ外食に出かけた。長雨の後は流石に温度も低く、千切れ雲の間のくっきりとした半月の姿がより肌寒さを増し加え、比較として胸のうちの温かさを覚えることができる。この秋から娘は自宅から学校に通っている。息子も娘もドムに入り夫婦二人で暮らしていた時と比べれば賑やかだし、何より何かあった時を思うと安心だ。娘が美味しそうに箸を口に運ぶ様子は親に取って何とも嬉しいし癒されるものがある。心配事を心配事として数え上げればキリが無いけれど、実は心配事が喜びや幸せを際立たせてくれてもいる。日常に掃いて捨てるほどある些細な喜びに、実はその背後に私を想うてくれる存在の大きな愛の心情が込められている。私達は愛の空気や愛の光や愛の時間という、親なる存在の愛の胎の中で暮らしている。どんな状況に置かれたとしても、母の胸のうちで泣き叫ぶ赤子のように、大きな愛に包まれて存在している。箸を口に運びながら、突然薄ら笑いを浮かべたり、目を潤ませたりする父を見て、薄気味悪がったりからかったりするけれど、娘の親としての私の心、神様の子としての私の心に働きかけている魂に触れる存在を、娘は見ることができずにいて首を傾げている。

2010年10月14日木曜日

今日の想い 218

いろいろ騒ぎ立てているけれど問題の発端はそこではない。騒ぎ立てている者達に共通するのは、彼らに事を煽ろうとする意志が見えることだ。渡さなくともいい枝葉の付いた情報を、口が滑るままに或いはキイに指が走るままに流している。そこには煽り特有の赤黒い感情が人から人に伝染している。事態を解決しようとするのではなく、事を煽り立てて問題が大きくなるのを喜んでいる。外にある問題が大きくなればなるほど、自分の内にある問題は影を潜めたかのように思えてしまう。彼らが悟り我々が悟るべきは、私の中に神もいればサタンもいるということだ。神の顔を見せたかと思うと一瞬にしてサタンの顔を見せる自分がいるということだ。私という魂の活動の中に善神の働き悪神の働きを見るほどに自分を掘り下げて観察できない者達が特に、今回の様に外の世界に対して極めて批判的態度を取ろうとする。善か悪かという極論を振りかざす。善と思われる行動の中に悪もあり、悪と思われる行動の中に善もあることを見届けることができずにいる。自分の中のカインアベルを認識し、自己矛盾を勝利しようとする位置で初めて外に目を向けることができるのであって、自分の存在の在り様を認識できずにいれば目が曇らされているばかりか、全く違うものを見せられているかもしれない。謙虚だという言葉を私達はよく使うけれど、謙虚の本当の意味もわかっていなければ自分の中で働く生きた言葉とされてもいない。言葉を選ばずに吐き続ける者達が、自分が吐いたその言葉に捕らえられ、自分を益々貶めていることに気付かなければ、その影響は個人に留まらないだろう。悪なる影響を波立てながら全体に及ぼしている。それは御父母様に取って本当に心痛いことに違いない。御父母様のその心痛を推し量れる者であってこそ私は御父母様の息子であり娘だと言えるのに、周りはおろか御父母様の心情をも蹂躙しかねない。中心の位置で混乱しているから私も混乱せざるを得ないと、本心良心の声として叫んでいるのかどうか、自分自身が一番よくわかっているはずだ。

2010年10月12日火曜日

星と私

終末のこの時、宇宙の全ての星の子達が地上に集まっている。魂を宿した星の子達が光を受け取るために地上に受肉している。星の子達は光を受けて初めて自分の存在が何なのか気付く。受肉した身体に太陽の光を受け太陰の光も受けながら、魂が受け取る光があることを知らされ期待している。太陽に学び月に学びながら、自らも光を発する存在になれるし、そうなることを期待されてもいる。その認識に先ず至ることが地上に存在している意味であり、受け取る光を照らす存在を親と認め、私は子だと認めることだ。星の子達の誰にとっても地上への誕生は輝きに満ちている。光り満ちる地球で魂の活動をなしながら自分をより知ろうとしている。キャンバスに描きながらその中に知らない私が表出されて喜ぶように、自分の人生を時空に表現しながら私を認識しようとしている。確かにそれも光を受け取る人生だろうし光を照らす生き方でもある。しかしそこに留まっている限り、その光は弱すぎる。限られた次元に留まる光でしかないだろう。地上を越えて霊界のはるか先まで照らし出す光を受け取り照らし出す存在でありたい者は、それでは納得できずに嘆いている。何故なら星の子達は本来宇宙の隅々、霊界の隅々まで照らし出す光存在の子達だからだ。そして光が愛であり、光存在が愛の存在であることを既に知っている。そして親である愛の存在に出会う為に地上に受肉している。太陽の光を浴びることだけに留まるなら、外的で脱げば以前として暗闇に埋もれるしかない光の衣服をまとっているに過ぎない。私自身が愛の光そのものである為には真の父母に出会い、真の父母から生まれた存在とならなければならない。真の父母から生まれた私は真の愛に輝き、真の愛を照らし出す。外的光の衣服を脱ぎ捨てても、永遠に真の父母の息子娘として、真の愛の光を照らし出す星になる。

2010年10月9日土曜日

今日の想い 217

社会が変わり環境が変わり全てが変化しながら時代が流れてきたが、最も変化しながら今に至ったのは人間そのものだろう。どの時代に産まれた人間も、産まれた時点では誰も皆白紙常態なのかと言うとそれはない。その時代時代で産まれる時に受け取る魂のステージは違っている。特にここ数世代の違いは目を見張るものがある。私を挟んで親子三代の各世代を比べてみれば明らかだ。思考関心にしろ感情方向にしろ意志行動にしても、子供の魂の在り様に対しては親でありながらも理解を超えている。私が子供に対して思う以上に、私の親から私をみるなら尚更だったろう。家を飛び出して教会に身を捧げた私が全く理解できなかったに違いない。親が私を理解できないように、私が子に対して理解できないのは当然なのかもしれない。子に対する親としての願いがある。親の願いには親としての感情が入っている。その感情を子にぶつけても子は同じ感情魂のステージに立ってはいない。子は戸惑う以外ないし親は落胆せざるを得ない。多くの食口がみ言を規律としての側面に意識の光を当て続けてきた為に、この状況になるとみ言の力を受け取れずにいる。愛と為に生きるみ言は、愛という規律であり為に生きるべきという規律として受け取ってはいても、愛そのもの、為に生きたい本性そのものとして浸透させてはいない。私の思い込みのみ言という、愛の表面的言葉だけの規律で私を裁き、規律を子供に宛がうなら、それはもはやみ言ではなくなっている。社会を切り裂き親子を切り裂き、そして私の心と体も切り裂いてしまう。無条件の愛の種としてみ言を受け取り、み言が私の中に無条件の愛の木を芽生えさせて成長させていたなら、私は今とは異なる在り様をしていたと言える。しかし気付きは裁きではなく恩賜だということはここでも言える。戒めの期間を超えた今、解放された愛の自由の時空の中で生きている。苦しみと痛みの感情を伴って頭を悩ます現実問題が、意外と祝福であり恩恵である可能性は大きい。解放開闢時代に入っていながら、私の意識がそれについていけないが故の歯車のかみ合わせの問題かも知れない。

2010年10月3日日曜日

稲刈り

貧しい農村で高価な機械を備えた家など殆どなく、収穫はひたすら手仕事であり人手を要した。上級生が夏休みを少し繰り上げて終えるのは、農繁期を休ませて手伝わせる為だ。クラスの何人かは農繁休学を終えた後も学校を休んで手伝っている者もいたが、それが普通で先生も何も言わなかった。うちは兼業だから他の級友の家ほど田を持ってはいなかった。一週間も費やせば殆ど収穫は終ったが、それでも、まだ元気だった祖父も一緒に家族総出で稲刈りに精を出した。澄み切った青空の下で家族皆で汗を流すのは気持ちがよかった。一心に目の前の仕事だけに没頭して何も考えなければ何の感情も波立てない。乾燥した藁の匂いと稲を手繰り寄せて鎌で切った時の青臭い茎の匂い、その匂いにその場が包まれることで誰もが収穫の気分に浸る。何十年、何百年と同じ作業を行い続け、先祖代々同じ気分に浸ってきたはずだ。農民に取ってこの気分は宗教的感情と言ってもいいと思う。秋の澄んだ大気が太陽熱を迎えれば、穀物は乾燥して生命源を閉じ込められ腐ることは無い。その閉じ込められた生命源を私達は食している。収穫の秋の太陽は、自然の生命の力を私の力になるよう閉じ込めて変容させる橋渡しの神であり供犠の神(高次の霊的存在)に違いない。痩せて小さくても家族のうちで一番若く体力のある私は、何度も何度も田とハデ(稲を乾かす為に立てられた六、七段にもなる木組み)の間を往復しながら稲束を積み上げていく。暮れかかる頃になるとその日の最後の作業として寄せられた稲束をハデにかけていく。積み上げた一つ一つの束を長い渡し棒でハデに登った父に渡し、父は丁寧に隙間の無いようかけていく。その日に刈り取った稲束を全てかけ終えるとハデの骨組みは見事な稲束の帳(とばり)を張る。沈みかける西日が稲束の帳を照らすと金色に光る。山間の高地のあちこちで金色に輝く帳が重なる様は、見る者を厳かな気分にさせる。田に平面的に実った稲穂は、ハデの上段まで高く立体的にかけられることで供犠の神に供えられる。まさに奉納の祭壇の姿がそこにあった。日本は長く稲作に対する精誠を供えながら民族的な祝福を受けてきた。米は日本人に取って生命の力そのものであり形を変えた太陽神だ。食事で戴く時はたとえこぼしたとしても、埃が付こうが灰にまみれようがそれでも口にするよう躾けられ、一粒たりとも無駄にする者はいなかった。もったいないという思い以上の想いが米にはあった。田舎を後にして四十年以上にもなるが、今ではうちの田も周りと同じで休田してしまって久しい。たまに帰ると雑草に占領された惨めな景色を目にしなければならない。稲作に捧げてきた先祖の精誠を無駄にしない為にはどうしたらいいかと言う様な、若い頃には思いもしない事柄が今の心を占めるのは、歳のせいなのか先祖の想いが伝わるのか、おそらくそのどちらでもあるのだろう。

2010年10月1日金曜日

今日の想い 216

暫く切り裂かれるような痛みが続くと言って、傷になっていないか何度も私に確認を求めた。発疹も随分前に引いていて、傷後は残っているけれど皮膚は癒えている。何ともなっていないと告げると首を傾げる。表面は殆ど癒えているようだけれど皮膚の下の神経はしっかり犯されているらしく、痛みは一向に引かないようだった。この痛みは既にふた月近く続いている。しかし今朝は顔の険しさを少し和らげて起きてきた。私に顔を見せるなり、昨晩天使が尋ねてきて痛みのある背中を触れてくれたと言う。嬉しそうだった。ここひと月以上も痛みが続いているため顔を歪めざるを得ない毎日だったので、久し振りに笑顔らしきものを見せてくれたのは私も嬉しかった。私も流石にいっぱいいっぱいだったが、表情を見て微かではあっても希望の光が見えた思いがした。その体験が何だったのかはわからない。只の夢に過ぎなかったとも言えるし本当に天使だったのかも知れない。霊界の存在は少なからず認識しているつもりだし、勿論天使の存在も知っている。しかし如何にも現れましたと言わんばかりの体験には非情に懐疑的だ。地上界の原理原則を超えて、奇跡的な霊的現象が外的なものとしてあちこち勃発するなら、信仰目標が内的霊的なものではなく外的なものに向けられかねない。外的なものに向けられるなら御利益信仰になってしまう。私が彼女の為に祈ることができるとするなら、外的なことをどうこうして欲しいと懇願する前に、先ず現状を内的に受け入れ甘受し、そこから今まで見えなかった悟るべきものを見出し、そして悔い改め改心に至るこの過程を滞りなく進められるようにという想いを差し出すべきだ。それが蕩減に対する正しい姿勢だと思う。そこには彼女の戦いがあると同時に、感情に翻弄され素直に正しく祈れない私の戦いもある。更にこの事案を通して一体化することを要求される彼女と私の間の戦いもある。もし彼女の言葉通り天使が慰めてくれたとしても、この痛みに対する自分の責任分担を天使に背負わそうとするのではなく、忘れずに尋ねてくれたことそれだけを嬉しく想い感謝しながら、私は私自身が乗り越えるべきものとして対しますという決意と覚悟を供えることだ。