2010年10月28日木曜日

更に霊界を考える

霊界がわからないと言う。”私が霊界を背負っている”というみ言を指し示し、霊界は背負えるものなのかという疑問を持つ。”私の中にある霊界”という認識もできなければ、ましてや霊界を背負うという意味は更にわからない。地上的な認識方法をそのまま霊界に対する認識に当てはめようとするから辻褄が合わなくなってくる。五感では認識できない世界が存在することは理解できても、非常に漠然としたものであって地上生活ほどの現実感を持って霊界に対している訳ではない。霊界が主体であるけれども依然として現実性の高い地上界に意識の大半を置いている。私達は私を中心として外界と内なる世界を認識している。外界に於いては色や光、音や匂いなどの感覚体験を持つがその背後の世界を窺い知ることは出来ない。内なる世界に於いても限界があり、快不快、喜怒哀楽、情熱や欲望という魂の営みがあることは感じることができるが、その背後に隠された深層に入り込むことは出来ない。外界に於いても内界に於いても、それらの人間知覚の限界を超えた先に霊界はその様相を現す。私達が外界に知覚しているもの全ては未知なる霊界の顕現であり、内的に知覚する魂の営みの全ても霊的存在の顕現だ。私の魂を舞台にして様々な霊がその本質を現している。外界にも内界にも私の知覚の及ぶ限界があればこそ、地上生活をまともに(?)為して行く事ができている。今の現代人に取って準備無しに感覚世界を超えれば、ちょうど薬で自我を麻痺させ、限界領域を無理にでも超えて幻覚の中に意識を泳がす者のように、自己破滅を来たしてしまう。しかし知覚領域に於いて感覚を粗雑なものにしたままでいるのは、外界に顕された霊的存在の叡智に触れることが出来ず、外界に愛や心情を見ることができず受け取ることも出来ない。外界に対して愛を受け取り愛をもって関わりながら、私の内界という小宇宙を愛で満たし愛で脹らませている。それが生の領域を超えた時に、私を中心とする外界と内界は反転して、培った内的なものが周囲に存在し輝くようになる。その意味で、私は生きている間霊界を背負って生きている。

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