2010年10月23日土曜日

今日の想い 220

人間は五感から受け取る印象の中に埋もれながら自分自身を見出せないまま生きている。外界から受け取る情報の全てを遮断すべく五感の触手を消し去られた時、それでも残るものは私は私であるという感覚だ。私は私であるという感覚はあるけれども、その私は一体何なのかを知らないし尋ねようとはしない。五感から受け取る印象を魂に反射させながら、その活動を私だと認識するに留まり、その奥に尋ねて行くことはしない。外的に或いは内的に、何らかの形で人生が特異なものとなり、意識を感覚世界に留めることに疑問を覚えて意識の光を別の世界に向けた者、即ち宗教的に目覚めた者が私の存在を突き止めようとする。私が神様に直結する私という存在であることを、どれだけ認識しているだろうかと私に問わなければならない。伝道され、み言を聞き、御父様を再臨のメシヤであり真の父母だと認め、み旨に歩んでいる私だという認識はあるかのように思える。しかしそれは極めて曖昧なものだと言えないだろうか。日々の現実以上の現実性を供えたみ言であり、真の父母との関係であり、み旨であるのかと問うならばどうだろうか。私の中にみ言的言葉は響いているけれど生活実感以上に響いているかといえば首を傾げざるを得ないだろう。内面に意識の光を更に照らしながら、私と神様との接点をより太いものとし、より強いものとする。私と神様を繋ぐ神経としてみ言を体恤しながらみ旨を歩む中で筋力を付けていかなければならない。私が神様を認識出来ると言うことが、神様が私を認識しているということだろう。五臓六腑や四肢、感覚器官が神経中枢に繋がってこそ完成人間体と言えるように、全人類が繋がってこそ神様の実体として完成されるはずだ。私が神様の身体の一細胞であり一部分であるなら、私は神様の身体のどの部分を築く役目を担っているのだろうか。

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