2010年10月9日土曜日

今日の想い 217

社会が変わり環境が変わり全てが変化しながら時代が流れてきたが、最も変化しながら今に至ったのは人間そのものだろう。どの時代に産まれた人間も、産まれた時点では誰も皆白紙常態なのかと言うとそれはない。その時代時代で産まれる時に受け取る魂のステージは違っている。特にここ数世代の違いは目を見張るものがある。私を挟んで親子三代の各世代を比べてみれば明らかだ。思考関心にしろ感情方向にしろ意志行動にしても、子供の魂の在り様に対しては親でありながらも理解を超えている。私が子供に対して思う以上に、私の親から私をみるなら尚更だったろう。家を飛び出して教会に身を捧げた私が全く理解できなかったに違いない。親が私を理解できないように、私が子に対して理解できないのは当然なのかもしれない。子に対する親としての願いがある。親の願いには親としての感情が入っている。その感情を子にぶつけても子は同じ感情魂のステージに立ってはいない。子は戸惑う以外ないし親は落胆せざるを得ない。多くの食口がみ言を規律としての側面に意識の光を当て続けてきた為に、この状況になるとみ言の力を受け取れずにいる。愛と為に生きるみ言は、愛という規律であり為に生きるべきという規律として受け取ってはいても、愛そのもの、為に生きたい本性そのものとして浸透させてはいない。私の思い込みのみ言という、愛の表面的言葉だけの規律で私を裁き、規律を子供に宛がうなら、それはもはやみ言ではなくなっている。社会を切り裂き親子を切り裂き、そして私の心と体も切り裂いてしまう。無条件の愛の種としてみ言を受け取り、み言が私の中に無条件の愛の木を芽生えさせて成長させていたなら、私は今とは異なる在り様をしていたと言える。しかし気付きは裁きではなく恩賜だということはここでも言える。戒めの期間を超えた今、解放された愛の自由の時空の中で生きている。苦しみと痛みの感情を伴って頭を悩ます現実問題が、意外と祝福であり恩恵である可能性は大きい。解放開闢時代に入っていながら、私の意識がそれについていけないが故の歯車のかみ合わせの問題かも知れない。

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