2010年10月22日金曜日

ひとつの信仰観

自分などは本来今の世で生きてはいけない部類の人間に違いない。どういう訳か一応責任ある立場に置いて頂いてはいるが、誰かの援助なくしては一日たりとも現代社会の複雑さを掻い潜っては行けないだろう。つくづくそう思う。何をするにせよ単純には行かず、大小の問題が起こる度に解決のための案もプロセスも見通せず途方に暮れ、物事を順序だてて考えることすら出来ずにいる。誰かに意見を求められても、言葉を選び論理だって説明することへの困難に対する不安で緊張し、頷くか頭を傾げるか位が関の山だ。本当に今まで息を繋いできたのが不思議なくらいだ。だから自分に生きる力があり、世間にかけあう実力があるなどと思ったことはただの一度も無い。しかし私にとってはこの自分の無力こそが最大の力となってきた。自分の無力を骨の髄まで認めているから問題が生ずれば何処までも自分を否定できるし全てを委ねるしかない。要するに私の信仰は苦しい時の神頼みそのままなのだ。事実泣き叫ぶままに神様も困り果て、条件もないのでおこぼれを戴きながら息も繋ぎ信仰も繋いできた。悪霊に取り憑かれている娘を救ってもらいたくて、母親がしつこくイエス様と弟子に付いてくる話が聖書のマタイ伝ある。イエス様はイスラエルの家の滅びた羊以外のところに私は遣わされていないと言うと、その女はイエス様に懇願するが、イエス様は子供達のパンを取り上げて子犬に遣るのはよくないと更に言われた。女は食い下がり、その通りだけれど子犬でも主人の食卓からこぼれるパンくずは頂けると言った。イエス様はそこに女の信仰を認めて女の娘は癒された。この聖書の話こそが私の信仰観だろう。御父様は私達を息子であり娘と認めておられる。だからどれ程罪多く、条件も無く、乗り越える力もない私でも、御父様にしがみ付きとことん食い下がることができる。それが私達の救いだ。穢れ果てた糞尿まみれの私でも救われるのだ。御父様はどんな状況であれ私を突き放すことは出来ない。御父様が私を息子と認めそれを翻されることはないからだ。

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