2010年10月1日金曜日
今日の想い 216
暫く切り裂かれるような痛みが続くと言って、傷になっていないか何度も私に確認を求めた。発疹も随分前に引いていて、傷後は残っているけれど皮膚は癒えている。何ともなっていないと告げると首を傾げる。表面は殆ど癒えているようだけれど皮膚の下の神経はしっかり犯されているらしく、痛みは一向に引かないようだった。この痛みは既にふた月近く続いている。しかし今朝は顔の険しさを少し和らげて起きてきた。私に顔を見せるなり、昨晩天使が尋ねてきて痛みのある背中を触れてくれたと言う。嬉しそうだった。ここひと月以上も痛みが続いているため顔を歪めざるを得ない毎日だったので、久し振りに笑顔らしきものを見せてくれたのは私も嬉しかった。私も流石にいっぱいいっぱいだったが、表情を見て微かではあっても希望の光が見えた思いがした。その体験が何だったのかはわからない。只の夢に過ぎなかったとも言えるし本当に天使だったのかも知れない。霊界の存在は少なからず認識しているつもりだし、勿論天使の存在も知っている。しかし如何にも現れましたと言わんばかりの体験には非情に懐疑的だ。地上界の原理原則を超えて、奇跡的な霊的現象が外的なものとしてあちこち勃発するなら、信仰目標が内的霊的なものではなく外的なものに向けられかねない。外的なものに向けられるなら御利益信仰になってしまう。私が彼女の為に祈ることができるとするなら、外的なことをどうこうして欲しいと懇願する前に、先ず現状を内的に受け入れ甘受し、そこから今まで見えなかった悟るべきものを見出し、そして悔い改め改心に至るこの過程を滞りなく進められるようにという想いを差し出すべきだ。それが蕩減に対する正しい姿勢だと思う。そこには彼女の戦いがあると同時に、感情に翻弄され素直に正しく祈れない私の戦いもある。更にこの事案を通して一体化することを要求される彼女と私の間の戦いもある。もし彼女の言葉通り天使が慰めてくれたとしても、この痛みに対する自分の責任分担を天使に背負わそうとするのではなく、忘れずに尋ねてくれたことそれだけを嬉しく想い感謝しながら、私は私自身が乗り越えるべきものとして対しますという決意と覚悟を供えることだ。
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