2010年10月29日金曜日

朝日に想う

朝日の刻々と昇る様子を顔を上げて対面しながら、私が太陽の力を受け取るに相応しい存在になっているだろうかと問うことが出来る。砕けて言えば、お天道様に顔向けできのるかと言うことだ。東のブラインドを開けると道の向こうの木立の上から、ひときわ円周を大きくした太陽は上っていく。学校で刷り込まれた機械的無機質の太陽概念は捨て去って、感情の波が収まった早朝の内面に、直接朝日の印象を取り込んでいく。その印象に触発されるものが私の中から湧いてくる。魂の中に入り込んだ雑多な霊が私の感情を揺さぶり弄びながら、それに翻弄されてせわしい呼吸を繋いで毎日を送っているが、その位置に神霊が関与する実のある霊の呼吸はなされない。受け取る朝日の印象の中でこそ活力ある実のある霊の呼吸がなされる。高く上り始めればそのまぶしさで直視できない太陽も、朝日のうちなら目を大きく見開いて対することができる。まだ起ききっていない身体を朝日に曝せば全ての細胞に光が届けられて、眠気は消えうせ足はしっかりと大地を踏みしめる。当然のように、意識もせずに光届く朝を迎え惰性的生を送っているけれど、太陽が存在してこそ自我意識が備わり、主体と対象の世界が私の中にも外にも広がっている。主体の位置では主体の役割をしっかり担いながら愛を与えて太陽と同じ位置に立ち、対象の位置では存分に愛を受けて太陽の相対に立つ。それでこそ太陽をめぐる地球の一存在としての地上生活を送っている。毎朝できるだけ朝日を浴びて一日の出発をなし、御父様がみ言を語られ人類の太陽となられて真の愛を照らされるように、私も愛を与えるひとつの光源体となることを願われている。

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