2010年11月13日土曜日

今日の想い 224

信仰が強要されたら、それは信仰ではなくなる。私は意志の自由性をもって信仰にいたる。子供の頃の私の周囲は、仏事であるとか神事であるとか育った環境が宗教的慣習に囲まれてはいたけれど、その環境によって信心の芽が吹いて信仰が育った訳ではない。宗教、哲学に対して関心はあったものの、関心だけに留まっていて帰依に至る河を越えることはないと思っていた。何回か原理講義を受けながら、やはり理解はできるけれど心魂の内側に入るまでの事は無いだろうとも思っていた。心魂への扉が開いたのは、復帰原理の同時性の講義を受けた時だった。悟性による理解で帰依に至る河まではいつも足を運ぶことはできる。いつもはそこまででそこから踵を返していたのだが、その時何の加減か河を渡る橋が突然下ろされた。私の内側でカチャッという鍵を開けるような音がして、不安や疑心の全くない感情に包まれ、信仰を持つと言う言葉を初めて理解した。それ以来、み言や御父母様に対して不信を抱いたことは全くない。しかし信仰にも段階があって、御父様が願われる絶対信仰に至っているかどうかは常に問わなければならない。1600年代、イエズス会によってもたらされたキリスト信仰も、現代のクリスチャンの在り様とは大きく異なる。個人の意志の自由性が芽生えていない当時、キリストに帰依することは自分は罪人で地獄に落とされるという恐怖観念が信仰基盤になっていた。おそらく私と言う個人の路程に於いても、意志の自由性からではなく恐怖観念からくる意志への強要が働いていた時期もあったし、それが段階として必要だったのかもしれない。そこを通過しながら自由性を獲得し、絶対信仰への足掛かりにしてきた。キリスト教が布教されながら、しかしその一方で、クリスチャン大名と言いながらもその実情は鉄砲や火薬の代価として、日本から多くの女子供の奴隷を送っていたりした。私も自由と平和の地上天国を標榜するみ旨でありながら、歩みに於いては摂理から外されてサタン圏に堕ちていく恐怖観念が私の意志を強要し、み旨だと言われれば何でもありに少なからず加担してもいた。

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