2010年11月19日金曜日

自由性を考える

祝福を受けたからといって私と言う様相が変わった訳ではない。先祖解怨を受けても私と言う様相は直ぐには変わらない。その意味するところを理解できずに受けるものは受け、貰えるものは貰っておこうとするけれど、その態度は常に受身でしかない。私が変わるのであり変わらなければならないという発想はなく、周囲が変わってくるだろうし環境が天国化してくるものだと信じている。正しくは私が変わらなければ周囲は変わらないし、私が天国をつくらなければ誰もつくらない。たとえ天国が周りに出来て私がそこにいるとしても、私は相変わらず私と言う地獄の中にいる。祝福も先祖解怨も、その意味を知り価値を知るためには、そしてそれを実現し体現するためには、私が供えるものを用意し、私が恨みを解き愛さなければ何も起こらないだろう。私が受身であり続ける以上堕落圏から抜け出ることはない。神様は人間に自由性を与えられた。神様は胸をかきむしりながら、神様自身が自らを拘束して手も足も縛りつけて堕落するアダムとエバを見届けるしかなかったのも、自由性を第一に考慮されたが故だ。堕落に手を差し伸べれば人間は自由の存在ではなくなる。神様は人間が自由性をもって神様のおられる故郷に帰ってくれることを信じておられる。私に対しても、私の自由性をもってみ旨を歩み天国を内にも外にも創ってくれることを信じておられる。私の自由性とは私の能動的な態度にある。誰かから貰おうとする受身ではなく、私が与え、私が創り、私が私を救うのだ。神様でもないまして他の誰でもない私が先祖を救い私が氏族を救うのだ。み言を通して私は天国を明確に見せられている。恵みも祝福も全て備えられている。しかし私の態度は御父様に対して、私はここに座っていますからお父様どうか天国をここに持ってきていただき、恵みも祝福も御父様の手で食べさせて下さいと言っているようなものだ。それが当然なら私に自由性は必要ない。人間である必要もない。神様に対して私は歩く動物でかまわないし親なる方も必要ないと言っているにすぎない。私は能動的であってこそ、神様が子としての人間に与えられた自由性がどれほど尊いものかが理解できる。神様があごが砕けるほどに歯を食いしばって耐え、御自身を縛り付けられてでも護られようとされた人間の自由性の尊さがわかる。

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