2010年11月25日木曜日
今日の想い 230
み言に相対するには私はあまりにも基準が低く、み言への橋渡しは私には届けられない、そんな気分のままでみ言に対すれば訓読はしても理想像を見るに留まる宗教的憧れでしかない。み言が私の中で作用し、私を目覚めさせ変革させるためには、み言が他の誰でもない私について語られているものであることを知って実感する必要がある。人間は霊的にも無知に陥ってしまったから、私自身の存在に対してあまりにも知らな過ぎる。堕落して限られた意識の光を届けられるところまでしか存在を認めようとはしないし、極端な者は見えるものしか認めようとしない。霊と魂の区別も、違いもわからなければ、それらの存在すら否定してしまって自分という存在を何一つわかってはいない。み言、特に原理のみ言は私自身について書かれている私を知る真理だ。汝を知るという根本的表題を掲げた時、自分はどういう存在でどのように創られたのか、自分はこの肉体の中で生きているけれどどう規定されているのか、そして自分は何処からどういう経路を辿ってやってきたのかと言う、三つの根本的表題を上げることができる。一つ目の表題に対しては、創造原理は外なる宇宙に関する真理以上に、私がどのように創造されたのかについて記されているのであり、二つ目の表題に対して堕落論は私が罪を抱えて規定されているのは堕落したからであり、様々なシガラミや超えられない壁の正体を見破ることができる。そして復帰原理は歴史の結実体である私とあるように、私に至るまでの救いの摂理の経路が記され、それは私の血の中に刻印されているのであり、遠い昔の異郷の地で起こった関係のない物語の原理的解釈ではなくて、三つ目の表題を解決する今の私として積み上げられた私の経緯を紐解ける。私の血の中に堕落から始まる全ての路程の失敗も勝利もしっかり刻印されているのだ。原理に精通すればみ旨が外の出来事だけではなく、外界と私の内界宇宙が見事にリンクされていて、私という天宙の復帰であり私という天国理想の完成であることを現実として生きるだろう。
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