2010年11月7日日曜日

今日の想い 222

兄弟は世間から見れば奇異に映る。特に日本はそうだ。もっと社会に受け入れやすいスマートな外部への接触は出来なかったのだろうかと思うけれど、復帰された当時の自分を振り返ってみれば無理だとわかる。今にして思えば急な私の変わりように親は相当面食らったはずだ。親にしてみれば子の変わり様が如何にも何かに取り付かれたように思えただろう。八割がたの兄弟は親にとって素直で優しく真面目な、そのまま変わらずにいて欲しいと思える子供だったはずだ。手に負えない子が信仰をもって変わるのなら受け入れられるだろうが、変わってほしくない子が変わったことが、親に取っては受け入れられないのだ。先ず目が泳いでいたらしい。今までは同じ眼線で接触していたのが違う空を見ているようで、親の側にあった心が何処かに行ってしまって心ここにあらずという感じだったという。更に今まで生活の中で使っていない言葉が会話の中にのぞいてくるし、祈ってみたり断食までしてみたりというような行動変化も目に付き始める。親に対処する為の上からの指示事項や提案なのか、それを鵜呑みにしてしまって今までぞんざいな言葉遣いだったものを急に改めてみたり、気持ち悪いほどの親への気遣いだったり、果てには親に啓拝まで捧げて肝を冷やさせる。こちらとしては善しとしての行動が親にしてみれば余計に奇異に映っていく。原理が正しいかどうか、御父様がメシアなのかどうか、そんなことは全く関心がない。愛の拠り所だった我が子が変わっていく、肌から同じ匂いを分泌していた我が子が違う香りを放っている。それが親を初めとする家族には受け付けられなかったのだ。今私達には氏族復帰という願いが目の前にある。ここまで乖離させてしまった関係を今度は修復して繋いでいかなければならない。そんな高等な作業が今の自分にとって難しいことは解りきっている。家庭はおろか自分でさえも主管できないのに、それで出来ると思えたとしたら御父母様とみ旨に対する不遜だ。私に対する神様の御計画があり、私の家庭や子供に対する神様の御計画があるように、氏族に対しても神様の御計画があるはずだ。それを教えてもらって理解できる程の内的霊的器は私にはない。神様の御計画があることだけを信じて、私はそれから逃げ出さずにひたすら必要な精誠をそこに打ち込んでいけばいい。他に何がなせると言うものでもない。神様の御計画のなかに生きて、そのコマ送りのひとつひとつに精誠を打ち込み続けることだ。それ以外ない。少し熟慮してみれば、知恵の無かった復帰された当初の幼い行動も、それはそれで精誠条件として光を放ち、神様が取られて私の復帰に対する計画が進められたのだろう。

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