2010年11月16日火曜日

今日の想い 225

摂理は急がれている。急がれているからこそ、しっかりと根源に繋がれた私を捕らえておくことは最も重要だ。為すべきことは山ほどあるし、差し迫った期限を提示されれば誰も焦る。しかし焦る思いに駆られてやれと言われた言葉を闇雲に胸のうちに響かせても、行動には焦る思いばかりが付着してしまって、復帰に対する御父様の想いが垣間見えるほどでも見出せるだろうか。摂理の途上で手を付けてきた事案は数え切れないほどだが、その中のひとつでも満足できるものとして御父様に報告できただろうか。やれと言われれば取り合えず手を付けるだろうし、それを願われてもいる。しかし中途で他のやるべきことも加算されていくだろうし、そうなればいくつ身体があっても足りないと思えるような外的表面的覆いでしか摂理を見届けることはできないでいる。そこに込められている願いや心情が行動の中に埋め込められ届けられねばならないのに、ギフトを入れずに包装用紙でくるんでしまって贈るような、そんな摂理に対する私達になってはいないだろうか。時を経るほどに願いは膨れ上がり、特に祝福の世界化から始まる摂理要求は把握できないほどの数値が責任として被さってくる。無理だという認識で意志はフリーズし、周りを見回しても誰もやれていそうでない状況に安堵してしまって時は流れていく。私は外的な事柄だけに翻弄されて心情の復帰、愛の復帰が私の中でなされていない。接するひとりひとりを愛する対象として認識しているか、それともくるんだ包装用紙だけを与える存在とだけ認識しているのか。愛する対象なら自分の全てを犠牲にしても与えたいと思えるはずだし、それで初めてその人に対して復帰と言う言葉が生じるはずだ。氏族復帰を今一度願われているけれど、私の中に氏族への愛が備わり高まって、彼等の為には何も厭わないと思えるほどであってこそ復帰と言う概念が私にも生じるし、祝福先祖を中心とする霊界にも植えつけられる。

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