2012年1月30日月曜日

心魂を考える

堕落人間の心魂の在り様を観察すると、思考は思考のままであり感情は感情のままで、思考して納得しているはずなのにその思考が意志発動に繋がらない。感情を覚えながらも感情が意志衝動を起こすまでに至らない。御父様の在り様と比べてみればよくわかる。御父様は思考してどうすべきかの判断が見えれば、その通りに行動される。神様の余りにも孤独でかわいそうな心情を覚えれば、何とかして差し上げたいという衝動に突き動かされて行動される。思考が意志に変容され、感情が衝動に変容される。堕落人間は意志を発動させるほどに思考されていないとも言えるが、納得しながらも行動に出来ないのを見ると思考は思考の範囲に留まり続けて意志発動に変容することが無い。感情に於いてもそうであり、心の琴線に触れて涙まで流しながら、かと言って余程の事でないと感動が衝動的行動に変容することも無い。思考から意志、感情から衝動への流動性がなくて、凝り固まった個体的思考であり自己の感情の域を出ない。流動性が高まれば意志して行動しながらより深い思考を起こさせ、感情が衝動的行動を起こしながらより深い心情を啓発させる。一方通行から逆の流れも起こしながら、心魂はより深く、より高く、より大きくなっていく。堕落人間の頑なな思考、頑なな感情、そして行動パターンを変える事ができない頑なな意志で、その関係性に流動性は殆ど見られない。御父様の思考は地上を制覇し霊界を貫き、その思考の中に神様も思考される。御父様の感情は天宙をかき抱き、その感情に神様の心情までも包み込まれる。御父様の意志はやると決められれば宇宙の在り様を変えてでもやり遂げるのであり、神様のみ旨に対する絶対性を上回りこそすれ妥協されることはありえない。そうやって御父様の心魂の在り様をいくらか表象することはできるけれども、私達が見なければならない私達と御父様の心魂との違いは、根底に思考感情意志の流動性と変容性が見えてくる。私達は瞑想もし、祈祷もしながら、受け取ったみ言葉が意志発動に繋がり、受け取った心情が意志衝動を起こすように、思考が意志に、感情が衝動に変容する術を受け取ろうとしている。

今日の想い 三百八十一

日本の田舎は大雪だが今年のアメリカは暖冬らしい。すでに大寒は越えてもうすぐ立春だし、どうも寒くなりそうな気配が無い。寒がりやの妻はそれでもまだ寒いらしいが、昨年の冬に比べれば遥かに過しやすいはずだ。ここのところ日中は10度前後が続いているし、あさってには18度を超えるとフォーキャストは言っている。暖かければ人は出かけるし、出かければ店としては客の入りも良くなる。今週はそんな感じで少し多めに準備しておこうと思っている。でも先々のことはわからない。四月の中旬にドカ雪が二、三度降った年もある。妻のことや商売のことを考えると暖冬はありがたいが、冬らしい冬を通過せずに春を迎えた場合、春らしい春になるのかどうかという心配がある。そんな心配は私ぐらいだろうが、四季がはっきりしている土地だから四季折々の草花があるし、年中春のような気候の土地に春の花は咲かないし、年中夏のような気候の土地に夏の花を見ることはない。そうであれば冬は冬らしくあるべきだ。それは人間の内的霊的様相にも影響する。現代の文明は四季のある温帯地方で開いているが、それは四季があればこそ開かれた文明であり、暖冬と冷夏が組み合わされているように、思考する冬が短いと花開き実りをもたらす夏は影を潜める。今にも破綻しかねない世界経済には熟慮の冬の期間が必要で、冬を通過しなかったら解決の発想を創造できずに崩れるに任せるしかない。気候と社会構造や秩序は何の関係もないようで実は深いところでリンクしている。共産主義や唯物思想がどんな風土で成長したかを考えてみればいい。そこで、このアメリカの暖冬がどう影響するかだが、全てが頭打ちの状態を避けることはできないだろう。経済ばかりが心配されているが、統制されて表にはなかなか出ないが国をも滅ぼしかねない深刻な問題を抱えている。その内容に対して今触れることは危険だが機会を見て触れたいと思っている。今までアメリカがここまで来れたのは、キリスト教国家としての運勢が、多くの国家的知恵をその都度貰い受けて来れたからだ。しかし今の今、その運勢圏には足の指ひとつもかかっていない。ブッシュとの会合で受け入れるべきだった秘策をブッシュは否定した。その時点で完全にアメリカはキリスト教国家としての多大な運勢を剥奪された。日の陰りは時間を追って早さを増していく。

2012年1月29日日曜日

店について

店の運営は常に何がしかの問題をかかえながら進んでいく。しかも問題が起こる時はいつも連鎖的に発生する。二日前に起こった漏電事故。冷凍庫の取っ手を掴んだ従業員が感電してしまった。幸い弱電で済んだから従業員は何とも無かったが、、。でも早くに電気業者を呼んで直してもらう必要がある。そして今朝起こった客の転倒事故。まだ開店前だったがホストがひと組の客を入れた。老夫婦が孫ひとりを連れて入ってきた。フロアはタイルを張っていてその時従業員がモップがけをしていた。乾かないうちは必ず滑る。私が目を離した隙に、客のひとりの老婦がトイレに向かったようで、振り向いたらフロアに腰を落としていた。滑って転倒したらしい。ウェイトレスが駆け寄って声をかけ、抱えて立たせようとしていた。その場は難なきをえて客は文句を言わずに食べて帰ったが、後で痛みを訴えて連絡をよこす場合がある。さらに昼の営業中には下水が詰まったのか、すしバーのシンク台の下からフロアに水が溢れてきた。こんな感じで店の運営は気の休まるときが無い。サービス業が潰れるのは、このストレスが重なって内的に抱えきれない状態となり、士気を喪失することでそうなる。サービス業を続けていく為には、このストレスを積み上げずにどう処理していくのかが問われる。実は問題から逃げずに、起こる問題を更なる内外の発展的要因に変える術を知った者が、この業界の運勢を得ることができる。設備の問題も頭を悩ますものだけれども、客との問題はその何倍も気を使うし頭を悩ます。客相手はただただ誠意を示す以外、突破する方策はない。そうしながらわかったことは、誠意を尽くした相手が認めなかったとしても、別の客を通してでも誠意に対する内外の報酬を何倍にも増して受け取ると言うことだ。その法則はいつも裏切らない。長年共に歩んできたフロアマネージャーは、客の文句に対するにもその品格が相手を理解させ、八割方のクレーム客は満面の笑みで店を出る。それはマニュアルで身につくものではなく、何百回、何千回と場数を踏み、誠意を示しながら身につけた必ず客を喜ばす自信であり、その香りそうな醸し出す気が客を変えてしまい、そして惹きつけて離さない。

2012年1月27日金曜日

霊の洪水を航海する

私は私という船で人生を航海している。荒波の中をただ漂い、波に呑まれて翻弄され続けるのを良しとするなら、私は私ひとりだけでいいのかも知れない。しかし幻想ではない真の幸福へ舳先を合わせようとするなら、少なくとも木切れではなく右舷左舷のある船体の体にする必要がある。夫婦という左右を決定させてこそ幸福へ舳先を合わせることができる。さらに船を船として安定させる為には重心を正しい位置に備えなければならない。子女を設け、親子という縦軸を立てて重心を決定させる。家庭を築いて重心が定まらない限り、どんなに帆を張ったとしても風が推進力にはなり得ない。風は荒波を起こすものであるけれども幸福に向かう推進力でもある。立ちはだかる困難苦難をどう利用するかであり、内的な叡智が必要となる。叡智はみ言葉にある。兄弟達の中には、み言葉に接し、み旨を歩むことで人一倍荒波を被り翻弄されてきたと思っている者もいる。いっそみ言葉に触れず御父様に出会わなかったらそれなりに波静かで幸せな人生を送れたかも知れないと思ったりもする。そういった時、当人には真の幸福を視線の先に置いてはいない。成り行きでそうなったこの世の家庭と、真の幸福を目指し真の愛から出発した祝福家庭との違いが見えてはいない。真の父母、真の家庭、真の愛、真の生命、真の血統。真を冠する様々な言葉をみ言葉に見るし我々も使っている。しかし真を冠する言葉と真を外した言葉の違いを曖昧にしか捉えていない。だからこの世の家庭と祝福家庭の違いも曖昧で、さして変わりがないと思っている。真の父母によって、真の愛を動機とし、真の愛が投入される家庭だからこそ乗り越えることができ、真の幸福に向かって航海することができる。そう実感できる機会は益々増えるだろう。人類がこれから航海する海は、今までの凪とは打って変わって、まさしく霊の洪水と言うに等しい霊の暴風雨圏に突入していく。善霊も悪霊も尽く地上に降り下り、濁流となり、真を冠する私であり家庭でなければ、激しく流れ行く時の海を航海することはできない。

2012年1月25日水曜日

八の字航路

原理講義では霊人体、肉体を説明するときに、横線を引っ張り上下に楕円形を描いて説明する。その時に、横線上の一点から始まって先ず上の方に楕円を描いていき同じ一点に戻す。そこで筆を離さずにそのまま下の方に楕円を描いていき同じ一点に戻す。この八の字の描き方がより霊人体、肉体の在り様を表している。どう描いても描かれた結果は同じようであっても、実はその過程を重要視することで見えないものが見えてくる。人間は八の字の航路を描きながら未来へ進んでいく天宙の船である。正確には平面的に見れば八の字は一点で交わっているようだけれども、立体的に見れば交わってはいない。交わらずに霊界と地上界を交互に行き来している。人間の肉体の血液循環自体が八の字を描いている。心臓を起点として上部への指示系統を一巡して心臓に戻ると、下部の臓器や四肢を一巡していく。睡眠に入って私の霊界を一巡すると目覚めて地上界を一巡する。しかし睡眠導入の点と目覚めの点は決して交わらない。交われば新しい朝とはならないし時間の観念が根本的に変わってくる。人間が八の字を描いて人生を航行していくように、神様も八の字を描いて時代を生きておられる。創世記に於ける七日間は神様の七回の八の字航路だ。夕となり朝となった。第一日目である。と、あるように構想される夜の期間を過されて、その構想のままに昼の期間を過された。構想の収縮期を過されて創造の拡張期を過された。よって宇宙は収縮と拡張を繰り返している。創造を始められて以降、夜の期間、昼の期間を過されたと言うことであって、御父様が話される夜の神様、昼の神様と言うのとは違う話だ。人間は目覚めている間は意識があるので、自分の地上的航路は見えているけれども、眠っている間は無意識なので自分の霊的航路は見えていない。だから八の字ではなく毎日が繰り返されるだけの円運動としか捉えられない。御父様ははっきりと意識的に霊的航路を見ておられるし、意志しておられる。霊的航路で構想され、神霊存在達と取り決められた事柄を、地上界で展開されておられる。

2012年1月24日火曜日

天基三年

天基三年の出発だ。誰もが溌剌と清々しい気分で新年を迎えたいと思うけれども、いろんな思惑が交差して、どうしても苦味を含んだものになってしまう。戦々恐々とまではいかないが、どこか不安で、何か重たいものを感じてしまう。それでも天正宮では、私の抱えている様々な思いとは裏腹に、敢えて否定して突き放すでもなく、かと言って抱擁するでもなく、真の神の日の行事が粛々と取り行われている。その様子を見ながらスクリーンの向こうに合わせて形だけのマンセイを行った。海洋摂理の中心的位置でアメリカの事業に関わって来たが、事業体そのものが危うく、某グループの主管を離れた僅かの店が残るばかりで、その数少ない店に於いても若い息吹も新たな投資も投入できずに、いつ消えるとも知れない灯を辛うじて点している。このままでは、結果的にビジネスはみ旨の為ではなく生活を立てる為だったと判断されても仕方が無いだろう。GDPを超える莫大な借金を抱え、更に資本を大幅に超える帳簿に出てこない負債をどの銀行も抱えながら、世界に通用していたドルが底知れず落ち続け、アメリカ経済自体が崩壊するやも知れない不穏な空気に包まれているのに、ここに立ち続けてビジネスを続けることに何の意味があるのか。アメリカ経済が崩壊するときは、どれ程み旨だと叫んでみても、アメリカに位置している以上共に崩壊してしまう。そんな予想を踏まえながらも、それでも毎日は外的なことに関する限りは昨日と変わらず流れ続けていく。誰一人この流れが寸断されることなど思いもしない。昨日と同じ朝が今日も明けたように、明日も今日と同じ朝が明けると信じている。時間は決して止まることなく惰性的に流れ続けるものだと信じて疑わない。とてつもない何かが起ころうとしている。それは論理としての頭が判断する予想ではなく、五感を超えた感覚に覚える臭いであり、寒気であり、気だるさでもある。ミクロコスモス(小宇宙)である人間の良心を中心とする内的なものが、体を始めとする外的なものを変革すべきであるけれども、そこに無理があるなら、良心の背後にある神様は逆の経路を取ってマクロコスモスから直接地上へ働きかけられる。相変わらず有りもしないことをしきりに叫んでいると言って、2012年も狼少年呼ばわりできるだろうか。

2012年1月22日日曜日

複数人格

私は私というひとつの人格を備えていると思っているけれど、実際はひとつの人格だけを備えている訳ではない。多重人格者に見るような、病的なほど別々の人格が入れ代わり立ち代わり現れるというような極端なものではないけれども、自分自身をよくよく観察してみるなら、私の中にいろんな人格があるのがわかる。それは誰であってもそうで、自分の中に複数の人格が混在している。人格者と言われる人がどういった在り方をしているかというと、複数の人格を統一的に束ね、良心を中心として統率された意志活動をしている人を人格者と言うことができる。統率されずに入り乱れた人格が野放しにされると、感情に激しく左右されたり、思考が落ち着かなかったりすることになる。古代の霊意識を備えて、自然現象や植物動物人間の霊的な動向を現実として受け取っていた時代から、外に霊を見ていた意識のベクトルを内面に向けることで、霊意識から自我意識へと方向を変えた転換点が洪水審判の時だ。それ以来、外に霊を当然のように見ていた意識が薄れて、科学的な数値や公式が支配する機械的な、魂を持たない自然が外に広がっていて、唯物的な見方しかできない人間になってしまったが、先天時代から後天時代へと転換する現在の転換点は、ノアの時の転換点を逆に迎えている。人間は改めて霊を見るようになる。審判以前の古代は自我意識を備えずに霊を見たが、D-DAYの転換点を超えると自我意識を備えて霊を見る。要するに、堕落人間は自分の中に妖邪な人格が混在するのを見て、強烈な自己嫌悪を持つようになる。だから後天時代を生き残る為には、良心を中心として統一された自己になることが要求される。誰もが良心革命を為して心身一体理想を掲げなければ、誰かから死を脅迫されるのではなく、悪魔の血筋で悪魔の血が流れている自分の存在を自分自身で否定せざるを得ない許しの無い世界がD-DAYを超えると広がっている。真の父母に繋がり、真の父母によって生まれ変わった自分であるという事実がどれほど価値ある立場かと言うのを、死を見ずに生きて実感する私達になるだろう。

2012年1月19日木曜日

枯すすき

いつものように暗いうちに職場に向かった。今朝は風が強い。強い風に草木が揺れているのがわかる。その中でひと際強く揺れている背丈の高いものがある。枯れすすきだ。周りに遮るものもなくて四方に激しく揺らいでいる。さして気に留めるでもなく書斎代りの店のテーブルから時折視線を上げてその景色を目にしていたが、朝日が薄暗い景色に差し込んでくると一つの驚きがあった。枯れすすきが朝日を浴びて銀色に輝いた。乾燥した枯れすすきが、白骨化したさやと羽ぼうきだけを残しながら、それでもしぶとく立ち続け、冬の冷たい風に晒され続けることに何の価値があるのだろうと思っていたが、朝日を浴びて銀色に輝く光を放ち私に印象を与えた。印象がそのまま教えとなって私の中に呼び起させる訳ではない。その印象を受け取って反射させるほどに私の魂は目覚めてはいない。しかし潜在意識のどこかに、目覚めさせるべき認識が眠っているのだけはわかる。遠い昔のどこかで目にしていて、ある強い感情を受け取ったのかも知れない。私の血に流れる過去の歴史の記憶として、印象を受け取ったのかも知れない。私の魂の海は塩漬けされたまま、今に至った夥しい恨みが沈んだままでいるが、印象を受け取る意味を問うとき解放されるべき恨みがあると同時に学ぶべき教えがあることを知っている。白骨化した枯れすすきが銀色に輝いている。強い風に激しく揺れ動きながら銀の粒子を振りまいている。それを見ている内に、私は忘れ去られた景色を思い出した。水を一面に張った田んぼに、春の陽光が反射して輝く、柔らかい銀色。山間から遠くに見える、眩しいばかりに光輝く、夏の海の銀色。刈尾山の麓まで見渡す限りに広がるススキの野原を、秋風の通り道のままにうねってなびく晩秋の銀色。そして雪の白に激しく反射する雪原の銀色。銀色に輝く景色は私の中に幾重にも広がっていたが、長い間忘れ去られたままの、それらの銀色の景色を思い出させて引き出すように、枯ススキは銀の粒子を振りまいた。

2012年1月16日月曜日

サタンの鈎針

どんなに地上にしがみついても、結局この地上から去って行く。私をみ旨に向かわせる意志は、地上的な事柄の鈎針に引っ掛けられて身動き出来ずにいる。あまりにも長い間慣れ親しんでしまった拘束状態に、解き放たれることを面倒だとさえ思っている。自由の翼を手折ったまま、地上に這いつくばったままで、飼い慣らされたサタン的家畜になり下がっているのが地上人間の姿だ。家畜を自由に放っても、家畜に自由の翼は備わっていない。その環境圏が全てだと、永遠に幻想の中に生き続ければそれも幸せだと言う人もいるかも知れない。しかし、それでもこの地上から去って行く。地上的呼吸が生きる全てだと思っていたのが、自由の身になったときに幻想が消え去ってしまう。幻想が消え去るのみならず別の呼吸に拠らなければ存在が否定されることを、その時に初めて知る。深くまで食い込んでいる鈎針を引き抜こうとすれば、強烈な痛みを感じる。歯根の奥深くまで感染すれば、その神経を引き抜いてしまう必要があるように、魂の奥まで堕落性に浸透されていれば、それを引き抜くのは容易いことではない。ありとあらゆる足掻きを経験せざるを得ない。根付いてしっかり執着しているものを引き抜こうとすれば、ここまで自分は醜くなりうるのかと、辟易させられる場面が一度や二度ではないだろう。それでも今地獄を通過しておかなければ、地上を去ったときに永遠の地獄にはまり込んでしまう。生きて地獄を通過してこそ勝利の光は私に差し込む。結局この地上から去って行く。愛を与えて受ける愛の呼吸の訓練場がこの地上だ。解放によって突入できる愛の心情世界を知らずに幻想に暮らしている。乳と蜜の流れるその心情世界が私が生きる本郷の地だ。どんなに執着しても、この地上世界は数十年の仮住まいであり、結局この地上を去らざるを得ない。どうせその時になれば引き千切らなければならない鈎針ならば、少々血が流れ痛みに喘ぐとしても今の内に引き千切ろう。引き千切って自由になろう。そうでなければ私は内的霊的に拉致監禁されたままだ。

次元キャンバス

信じられるとか信じられないとか、出来るとか出来ないとか、それは或る意味今となってはどうしようもない問いなのかも知れない。今は既に問うべき時期を超えているのかも知れない。信じて当然で、出来て当然で、そこに時間を費やす余裕はなく、そこに踏みとどまったままの人間は置き去りにするしかない。肉体を持って御父様に侍るということは、地上世界という限られた時間と限られた空間に、私が侍った痕跡を刻んでいくことだろう。地上に生を受けた者は全て、生まれた時間と生まれた空間を誕生日、誕生地として刻んでいる。そうしてその他のいろんな記念日や記念の場所があるように、食口である私達は何を持って御父様に侍り、何を持って精誠を尽くしたかを、時間に刻み空間に刻んでいく。私達が残すことは悩み揺れ動く軌跡を描いていくことではなくて、この時この場所でどう侍ったかを刻んでいき軌跡を描いていく。そうあってこそ私の生は父子の因縁で御父様と結び付けられ、Oの中に私というX存在が存在できる。私達はそれぞれに次元キャンバスを与えられている。それは平面のキャンバスでも立体のキャンバスでもなく、時空のキャンパスを与えられているのだが、私が時空を超えて時空を主管できる位置に次元を上げなければ、次元キャンバスに刻み、軌跡を描いていくことはできない。横的な位置から縦的な位置に次元を上げ、しっかりと愛する意志としての筆を持ち、与えられた時空のキャンバスに私を通して働かれる御父様の理想を刻んでいく。絵具は、、、。絵具は私の御父様への想いから流れでる精誠の汗であり涙だ。一休は涙でネズミを描いたけれども、統一食口は精誠の涙で御父様の理想を時空に刻んでいく。

2012年1月10日火曜日

牡丹雪

久しぶりに雪らしい雪が降った。気温は差ほど低くは無いし湿度も高く、それでこんな大きなボタン雪になったのだろう。ニューヨークにいる息子が正月休みをもらって帰っていたが、明日には仕事が始まると言うのでDCのダウンタウンの駅まで車で送っていった。地下鉄で行けば用無しなのだが、そこは親馬鹿で、片道四十分はかかるユニオンステーションまでわざわざ買って出て送って行った。アパートを出る頃降り始めて、着く頃には本格的に降っていた。行きは夕方で道も混んでいてなかなか進まず、間に合うかどうか焦ってしまったために雪を愛でる気分でもなかったのだが、何とか駅に送り出して一息ついた帰りは、やっと周囲を見回す余裕ができた。店内から漏れ出る電飾の明かりに照らし出されたワシントンの町並みに、大きなボタン雪がレースを重ねたように降りてくる。サークルが交差点の随所にあって迷路のような街路を縫って運転しながら、信号にかかる毎に雪で霞んだ周囲の景観に気分を預ける。30年前に来た当初、この地域の日本レストランに魚を配達していて迷ったり駐車しずらかったりと、当時はこの道路状況に随分悩まされたものだが、時間の制約が取れて運転するとこうも景色が違ってくる。ウィンドウを通した景色に愛おしささえ覚えながらも、それでも心の行先は離れて生活し始める息子に辿り着く。今は高速バスの中から同じ雪が降るのを眺めているはずだ。違う街の違う環境で、伝えきれない親の想いは私に押しやったまま、何の想いを抱えて暮らしていくのだろう。子供が十代の頃には抑えつけもしてみたし泣いてもみた。説き伏せてもみたし頼み込んでもみた。それでも心を開かないのなら、せめてこの降る雪に想いを籠めて、同じ降る雪を眺めている息子に届けられないものだろうか。親がこうも切ないものだと思うと、牡丹雪は滲んで霞んで、私の心の中にも降ってきた。

修練会

み言葉は堕落人間である現代人にとって非常に難解だ。特に本体論で語られるみ言葉は聞いたそのままを頷けるものではなく、何度も何度も反芻しながら、今まで生きてきた既成概念を壊して新しい概念を消化吸収していく牛の力を必要としている。私達は相変わらず先天的地上で生活しており、その行動パターンは旧態依然の既成概念で思考したことに拠っている。霊界を無視した地上というこの次元世界だけを活動範囲として生活することに慣れているから、より深いみ言葉として本体論で語られる、霊界を把握できる霊的な概念を備えなければ理解できない内容にはついていけない。しかし何度も何度も反芻していくと、微かな雲間が見えてその向こうに広大な青空が広がっているのを確信するように、地上次元の割れ目が見えて、その先に何処までも見渡せる別様の世界が広がっていることに気付いてくる。だからと言ってそのまま新しい世界、後天的な地上と霊界がひとつになった新しい世界に突入できるわけではない。訓読と合わせて生活実践が必要であるように、思考と合わせて愛の実践が必要であり、それでこそみ言葉をみ言葉として正しく受肉できる私になれる。四大心情圏がどんなものかどれほど想像したとしても、家庭を持って知る四大心情圏の意味がその想像を超えるように、どれほど頭をひねってもわからなかったみ言葉が、愛の訓練の過程で理解へのゲートがあっさり開いたという経験は、誰もがひとつやふたつは持っているはずだ。それこそがみ言葉理解の正攻法であり統一教的だと思う。しかし、だからと言って通り一遍読み流すだけ、聞き流すだけといったように、よく口にする条件的にでもというような、或いは私は頭が悪いからどうせわからないと言うような、最初から諦め気分では入るものも入ってこない。そしてどれだけ実践でと思ったとしても空回りすることになる。過去に動くだけ動いたけれど累々たる失敗の過去をどれだけ積み重ねてきたことか。私は本体論の修練会に参加しましたと得意顔で言うなら、それは御父様がその修練会にひとりひとりを招待されて証書まで戴いたその意味を理解してはいない。本体論を通して私は御父様と共に後天時代へと入っていかなければならない。そうであるなら理解も出来ないでいて、もう修練会に参加しましたから等とはとても恥ずかしくて言えるものではない。参加したことが偽りではなく真実として参加したことになるように、本体論を理解して生まれ変わらなければならない。

2012年1月8日日曜日

予防接種

年明けて早々に風邪をひいた。去年も同じ頃に同じ症状の風邪をひいた。先回の風邪の、余りにもしつこい熱と余りにもしつこい咳に参ってしまって、次の冬には絶対予防接種を受けようと決意した。そしてその決意を忘れることなく、11月に入るとすぐドラッグストアーで予防接種を受けた。そして安心しきっていた。それで、年明けてまた風邪をひいた。ひき始めは熱も無く、軽い咳が出る程度だったので予防接種のお陰でこの程度で済むのだろう、ありがたいなと思っていた。しかし咳は次第にひどくなり、熱も出てきた。それでもまだ昨年に比べれば寝込むほどでもないなと思って予防接種に感謝していた。そしてついに寝込んだ。寝込んだ次の日、解熱剤を飲んでドクターオフィスに行った。去年は寝込んで3日ぐらいして、やっと起きられるようになってドクターオフィスに行ったが、今回は寝込んだ次の日、無理にでも医者に処方箋をもらって薬を飲んだ。飲むと直ぐに効き目が出始め、それ以降寝込むことは無かった。だから予防接種のお陰で去年の風邪よりは今回の風邪の方が楽だった。いや、無理やりそうさせたのだろうと言う人もいる。予防接種を受けたのにどうして、、という感情をどうしても持ちたくなかったので、たとえ風邪をひいたとしても去年よりは善処した形で締め括りたかった。そして私はまた学んだ。予防接種に頼りきって、安心しきってしまった私に非があるのであって、決して予防接種が効かなかったのではないということを。私は恐らく笑われる対象だとは思うけれども、意外と内面的に幸せな人というのはそんな発想であったり、そんな行動パターンだったりする。自分に起こること全てに対して、たとえ人目には惨めで悲惨な出来事であっても、明日の私の幸せの為に私に必要なことであると自然に捉えられるなら、その人はきっと本質的に幸せな人だ。そうだ、未来の私に顔を向けることが大切だ。未来の私に顔を向けて今の私を生きる。私の中では予防接種の面子を立てたことになった。いや、一年越しで決意して予防接種を受けた私の面子を立てた格好になった。

2012年1月7日土曜日

春の明るい日差しに照らされて、汚れた根雪が溶けてくると、その雪解け水で大地は潤う。潤った大地では水の精が生命を吹き込み、土の精が冬の間眠っていた全ての種子という種子から生命の力を引き出していく。草花の成長に生命を見るように、その周りの環境で植物の生命に関与する、蠢き息衝く霊の生命が生きている。霊的感性に目覚めた者なら、その様子を窺い知ることができる。土の精霊が存在していて水の精霊が存在している。風(大気)の精霊が存在していて熱の精霊が存在している。地上の実体は霊達に取るなら影だ。本質は霊であり地上で人間が五感で受け取るものは影だ。霊的感性が長い間封印されたまま今に至った現代人は、影を本質として受け止めているが、本質は影の背後にある霊だ。私のこの体も影に過ぎない。影の背後にある生命体、生命体の背後にある私の心魂、心魂の背後にある精神こそ私の本質だ。大きくは地球も、岩石や物質の塊として科学的唯物的概念で捉えているけれど、それは地球という影の部分、ミイラとして見ているのであって、本質を見るなら地球という一個の大きな有機的生命体であり、背後に地球心魂があり、そして地球精神が存在している。唯物的な捉え方だと生きて私に働き、心魂で私に働き、精神で私に働く地球を窺い知ることはできない。天地開闢は背後で息衝いていた本質が主体的に迫り出してくる。唯物的な捉え方に固執したままだと身体は益々硬くなっていくだろう。頑なな心魂そのままに身体は硬くなる。真の愛の日差しに照らされて、頑なな精神的背後がほどけてくると、愛の心情で心魂は潤う。天宙的な春がやってくる。長い長い宇宙の冬を潜り抜けて、本当の春が、神様の春がやってくる。

2012年1月4日水曜日

天基3年は閏年

陽暦2012年が明けた。全ての行事が天暦に従うようになった為に、陽暦の年明けが余り意味を成さないように感じる。この世に於ける年明けのカウントダウンや、新年に入った歓びの顔や挨拶も何か空々しい感じがするし、何も知らないこの世の人達が陽暦の新年を祝っているのが、どこか間が抜けて滑稽な感じもする。天暦2012年は閏月があって13ヶ月となる。み言葉の中に、この13数という一ヶ月を中心として十二ヶ月が引っ張られていく、、と言うのがある。陽暦には超えられなかったものが、13数が天暦に現れることによって踏み越えられると言うことだ。踏み越えた先がどうなるかを未だ人類は体験したことが無い。それはまさしく未知数の世界に突入していくことになる。御父様は数理に対するいろんなお話をされていて、私などはどうにも理解できず頭を抱えることしきりだ。復帰歴史は数理を復帰する歴史でもあったということは頷けるけれども、いざその過程や方法を説明され始めると、途端に付いて行けなくなる。奇数偶数が相対関係であり、位が上がることは数えていく数の延長線にあるのではなく、次元を上げて出発することだと言うのはおぼろげにわかりはするが、それ以上の話は奥深い闇の中でのことで付いてはいけない。ポアンカレ予想という百年来の未解決の命題があって、十年前にロシアの数学者がそれを解決して見せた。しかしその後、彼は隠遁生活をし百万ドルのフィールズ賞を辞退したりして奇人変人扱いされたが、おそらく人間の通常の意識範囲を超えることで証明できた為に、彼にしてみれば地上的な副作用が相当大きかったのだと思う。通常の人生価値観を捨てて霊界の相当の高次元まで飛んでいかなければ回答を受け取ることはなかったはずだ。御父様の数理に関するみ言葉に対しても、高次元の霊界の神霊に耐えうる精神を私が供えなければ、その理解を容易く得られると思うべきではないのかも知れない。12数である十二弟子は13数であるキリストイエスを立てることが出来なかった。しかし再臨のキリストとして、封印されたままの13数を御父様は勝利されて取り戻された。2012年の閏月である一ヶ月を中心として、13数の権能を天暦で回り始めた天宙で行使される。堕落圏である地上的概念で、どれほど2012年の起こり得る事柄を並べてみても、殆ど無意味だろう。私たちにとって、予測することが大切なのではなくて、起こる事柄をどう受け止めようとしているのか、その準備する器が問われている。

2012年1月2日月曜日

霊界で御父様に会えるか

死の門を潜って地上の意識を捨て、霊界の意識に目覚めて行くときに、霊界で御父様にまみえることができると多くの兄弟は思っている。地上で地上的な意識で御父様を認識することと、霊界で霊的な意識で御父様を認識することとは異なっている。地上で御父様と心情因縁を結んだから、霊界で御父様にあうことができると思っているけれど、心情因縁を持つことと心情因縁を持った気分でいることとは異なる。多くの場合、気分に留まったままで満足していて心情因縁を結ぶまでに至ってはいない。はっきり言って、霊界で御父様にまみえるどころか、御父様を覚えてさえもいない。肉体を脱いで死の門を潜っていくと、先ず鉱物を肉体生命として形成する力であった生命体が、肉体を脱いだ第二の私の存在となる。この生命体は誕生以来の全ての記憶を刻んでおり、死の門を潜ると自分の生涯のビデオテープでも見るように全ての記憶が現れる。それはこの生命体によるものだ。その時には祝福を受けたこと、御父様に出会ったこと、すべての記憶が私と共にある。しかしながら生命体のままでいつまでも留まっているわけではない。霊界へと入っていく為にこの生命体も脱いでいく。生命体を脱ぐと私の根源にほど近い心魂体が残る。心魂体は私が強く印象に残っている記憶のエキスだけを保持しており、記憶が表面的な気分に関連するものは生命体と共に脱ぎ捨てていく。さらにその心魂体すら脱ぎ捨てて霊の体で行くところが霊界であり、よって、御父様という存在があってもなくても、それなりに生きていけるだろうという感覚であるのなら、霊界に足を踏み入れた時点で御父様を殆ど忘れ去り、御父様の存在は何億光年も離れた遠い存在でしかない。それは今の私が前世を何代も遡って、人類始祖の犯した罪を私の記憶として残していないのと同じことだ。心情の因縁は確かに地上だけで結ばれる。だけれども食べるのも忘れ、寝るのも忘れるほどに深く関わることで心情圏へと踏み込むのであり、好きだ嫌いだぐらいの気分では極めて表面的であり、即ち地上的感覚的であって内的霊的な心情圏に近寄ってもいない。本当は無茶苦茶怒鳴られ、恨みさえ覚えるほどの仕打ちを御父様から受けながら、それでも御父様に付いて行く為に嫌う感情を主管して整理して乗り越えなければならず、その悶々とする過程を経ることで裏口から心情圏へ踏み込んでいける。ニコニコされる御父様を慕わしいと思う感情から深みの心情圏へと入っていくのは、その方が正当な道なのかも知れないが、私のように、御父様御父様と口にしながら物語に登場する王子様でも慕うような素振りを見せる姉妹を見て白々しく思うひねくれ者には正当な道は難しいだろう。立ち上がれないほど傷つけられて、やっと心情圏を訪ねていく。