2012年3月31日土曜日
万人の戦い
今はまさしく万人の戦いの中に突入している。誰であっても万人の戦いから逃れられる者はいない。これからあらゆる戦いに呑みこまれながらも、しかし全ての戦いは私の内なる戦いの外的照射であると言うことだ。だから私を巻き込む外的戦いから逃げたくても逃れることはできず、その戦いを照射している私の内なる戦いを勝利しない限り、外的戦いに翻弄され続けることになるだろう。内的霊的目を覚まして戦いを勝利に導かなければ平安を迎えることはできない。問題が起こる毎に、私の内面の何処にコンフリフト(衝突)があるのかを見る目が必要であり、内面の叫びを聞く耳も必要だ。降って湧いたような今の問題も、外れくじでも引いて巻き込まれたかのような被害者感覚でいるけれども、分明に私の内なるコンフリクトが現れたのであり、外れくじではなく私の課題として煩っている。上層部での解決を願う以外ないと、以前と同じように仕え働いているけれども、上層部がどう対処しようが私は私の態度を自分で決めることが出来るはずだ。何の行動も取らずにいるのは、自分と家族の生活を優先してしまって、御父様に刺さった釘は見て見ぬ振りを決め込んでいることになる。今グループ内で働いている食口達を非難しようとは思わないし、当人達こそ戦いの最前線で翻弄されて最も苦しい立場にいるのは良くわかっている。しかし同情して哀れんでも何の解決にもならない。しっかりと戦う姿勢と態度を取るように発破をかけ続けるべきだ。御父様が戦うことを決意され、私たちにも戦いに勝利する強さを要求される以上、宗教者は紛争を願わないものだという認識は今更通じない。戦いの場から逃げるのであれば、神様が矛先を私に向けるだろう。心と体が戦っている堕落人間である以上、万人の戦いから逃避出来る者は一人もいない。であれば勝者を選ぶのか敗者となって全てを奪われるのかどちらかだ。
2012年3月29日木曜日
今日の想い 388
人間は目覚めている間は意識の存在だ。意識が五感を通して受け取るものを認識しようとしている。意識が情報をどう認識するかは人それぞれに拠って異なり、また一人の人間に於いても意識という光の当て方によって認識は大きく異なる。自分が認識したものが絶対に正しいと、最終的な判断をすべきではない。自分の判断が正しいという決めつけが大きな落とし穴であり、身動きが取れなくてその後の認識に正しく光を当てることができないでいる。意識は自我の光とも言えるが、血脈の中の堕落的なものは自我そのものに混入されて受け継がれているのであり、意識に既にサタンから受け継いだ堕落的なものが存在している。根源が既に偽りの存在であることを受け入れなければ、御父様の本質的価値は全くわからない。堕落の性品として表れ、私の血の在り様として流れて蠢くものへの吐き気をもよおす霊的気分を味わえない者に、救いへの渇望や救いを差し出される御父様への本質的感謝の感情はわからない。御父様の言動や行動、御父様の指示のもとに教会が関わってきた摂理内容やそれに伴う副作用、そのひとつひとつを論(あげつら)ってどうこう言うことに、救いに繋がる何の霊的生命要素も感じ取ることはできない。堕落的死亡圏のなかで糞尿をかき回して遊んでいるに過ぎないだろう。腐臭を覚える投稿や遣り取りの多いのを見ると、自分の霊的生命をどうしても受け取りたいという切羽詰まった者が、食口の中にどれだけいるのだろうかと思わされる。活きたみ言葉を自らの意識で屈折させて、死んだ概念として受け取るならば、同じみ言葉という言葉の地上的なものだけを使いながら、別の堕落的存在に変わっただけのことだ。み言葉を最初に受け取った当時の感性を思い起こし、そこから出発し直すべきだ。
妹に会って想うこと
留守の間、娘が郵便受けから毎日回収してくれてはいたが、封も開けずにそのままテーブルに山積みされたままだった。広告と封書をよりわけ、その殆どが請求書の類だったが、その中に妹からの手紙が挟まれていた。帰国した折に連絡して会ったが、そのとき妹は手紙を出したことは口にしたが、その内容までは触れなかったし、私も敢えて尋ねはしなかった。実は今年に入ってから立て続けに妹に手紙をよこしている。復帰の為の条件だ。受け取る方は面倒くさがるに違いないし、気味悪がられて却ってどうなんだろうとも思ったが、条件と割り切って出し続けていた。会った時は案の定気味悪がられ、送ってくるなとは言わなかったが、送ってよこすのは手間暇かかるから、送るならEメールにしたらと言われた。妹は昔の子供の頃も、そして久しぶりに会った今も相変わらず素直なままで、わだかまりを持ってひねくれることもないが、難しいことはわからないと言って深く訪ねることもしない。私が高校二年でみ言葉に触れて深く感化されたとき、先ず妹を導きたいと思った。でもお互い離れていて接触することは無かったし、献身生活では連絡して会うことも儘ならなかった。時が経って時間的にも気持ちにも余裕が出てきた頃には、妹は結婚もし子供も生まれ既にそれなりの生活スタイルが出来上がっていた。私が献身して家のことどころか自分のことも儘ならない間、妹は事或る毎に親の世話をしてくれていたから、今会っても頭は上がらないし言う言葉もない。兄貴面して言える立場は未だに失ったままだ。手紙の封を切って、丁寧な文字の文面を追っていくと、私を責める言葉は無くて、家のこと以上に病の妻を気遣ってあげるよう書かれていた。心配する立場が逆に心配されて、自分の不甲斐なさに少し落ち込み、手紙を手にしたまま私は暫く遠くを見た。普通に考えれば、氏族復帰と言ってもどこをどう攻めていけばいいのかわからない。親兄弟からすれば、家を捨てておいて何を今更と思っている。先ずその恨みを埋めなければならないのだろう。ひとつに専念したはいいが多くのしわ寄せが回りに及び、それを補修できなくて足踏みしたままの食口は私だけではないはずだ。しかしそれも致し方のない運命だろう。疲れず愚痴らず投げ出さず、歩み続けなければ今までの全ての歩みを否定したことになる。一滴ずつでも貯め続ければ、いつかは溢れる実りを見るに違いない。供えた条件、捧げた精誠がマイナスとなることはないはずだ。氏族復帰の勝利した証しに目をやれば、焦りもするし溜息も出る。それでも自分の気分や感情に負けてはならず、私には私の開拓しなければならない氏族復帰の道がある。そしてその道を切り開いていくという復帰に対する意志こそが、氏族圏にとっての希望の光に違いない。
2012年3月28日水曜日
今日の想い 387
シカゴを迂回してワシントンレーガン空港に昼前に着いた。成田を飛び立つときの寒さとは打って変わって、20度に近い大気が飛行機の出口で迎えてくれる。シカゴオヘア空港でも軽装が目立ち随分日本とは様相が違うとは思ったが、ワシントンに着いて外気に触れると、改めて解放感のあるアメリカの春に吐息が漏れた。預けていた荷物を引き取ると、疲れ果て項垂れている妻を元気付けながらタクシーに押し込み自分も飛び乗った。ワシントンはポトマック川がチェサピーク湾へと流れ込む地域の北側の町だが、その対岸に沿っているパークウェイを北西に昇って行く。川沿いを走ればポトマック川を挟んで、ジェファーソンメモリアル、リンカーンメモリアル、ワシントンモニュメント、そしてケネディーセンターが横並びに見える。タイダルベイスンはメモリアル群の中の人口湖だが、日本から届いた桜の木がこの湖の周りを囲んでいて、湖に映る桜がワシントンの代表的なポストカードの絵柄になっている。桜の開花はピークに達しているようで、車からは遠目にしか見えないが、開け放たれた助手席の窓から桜の甘い匂いが流れ込んできて、手を伸ばせば届きそうなくらいだ。頭の中を空っぽにして甘い風に吹かれるに任せ、適度な疲労感に眠るでもなくまた覚めるでもなく、迎えてくれるこの街の大気に暫く身を預けた。今回の一時帰国が当初の計画とは少しずれたものとなった。正直負債もある。でもその時点でそう判断するしかなかったのは確かだ。今はただ快く迎えてくれるに甘えて、とにかく一歩を踏み出したい。ありがたいことに溜まった仕事が私を必要とし、私を待ってくれている。
2012年3月27日火曜日
愛の架け橋
肉体は外界に包まれ外界の中で生きているが、私の心魂が内界を造りその中で私は生きている。外界で受け取る印象を内界に取り込みながら、外界と内界は切っても切れない関係にあるけれども、あくまで私は内界に生きることを実とし、外界は内界に取っては影のようなものだ。外界は肉体を持つ人類皆が共有する世界だが、外界を実だとし内界は影にすぎないと思い込んで、外界のあらゆるものを占領しようとしている。外界は占領するものではなく、外界から受け取る印象を内的に抽出しながら、内的世界を創造するための学びの場だ。外的に受け取るものが重要なのではなく、外的なものを通して内的に受け取るものが重要だ。肉体を戴いてこの外界の学びの場を戴いているが、感謝に溢れ、讃美に溢れる想いを生活の中で際立たせてこそ、私は学んでいるということができる。感嘆の日々であってこそ正しく学んでいる。統一食口であるなら自叙伝に見る御父様の生涯を知っているだろう。ただ知るのみではなく深く学んで私の内界の柱とするなら、御父様と同じ内的路程を踏襲していかなければならない。それは外界からの印象をただ受け取るのみに終始するのではなく、外界に強く働きかけることを意志しなければならないということだ。愛する、為に生きるという意志を差出す訓練が私達には必要になる。肉体的に生きて堕落圏から生命圏への脱出を為すには、思考と感情の架け橋、み言葉と心情の架け橋としての愛する意志、為に生きる意志を差出せる自分になるかどうかに掛っている。心と体の統一は、心と体の架け橋である愛する意志、為に生きる意志なくして統一はありえない。御父様が夜の神様、昼の神様の架け橋となられ、天上地上の架け橋となられ、神様と人類の架け橋となられ、先天時代と後天時代の架け橋となられ、真の愛をその架け橋の意志として差し出されたように、私は真の愛を相続する者となって、愛し為に生きる意志を差出し愛の架け橋となる。
2012年3月26日月曜日
今日の想い 386
裁判で実力のある弁護士を雇おうとするのは、論理を操って相手を否とは言わせない袋小路まで追い詰める為だ。天が判断する罪の有無とは別に、人間の判断に任されてしまっている罰則の部分で、相手の人間の口を封じ込めることで罰から逃れることが出来る。天が直接に関与できない堕落社会であればこそ、判事や弁護士がいて裁判が必要なのであり、霊界地上界がひとつになって天が直接関与できれば、罪を犯そうにも犯せなくなる。霊界地上界がひとつになるのは時間の問題であるけれども、未だサタン的、堕落的人間は天の判断を無視し、論理にものを言わせて相手の優位に立とうとする。人間の思考を万能とする限り、本質とは関係の無い取引きが跋扈し続ける。そのように論理を操ることで、行動を正当化したり非難したりしても、それで本質自体が変わることなどありえないが、論理に長ければ良心が影を潜め本質が見えなくなってくる。全知全能の是非を問い御判断の誤りもありうる御父様かと言うことと、私の救いから始まって人類の救い神様の解放を為される真の愛の実体とを、同じ土俵に上げて論議しようとしている。全知全能の是非を問うことは、私自身が全知全能でない限り無理な相談だ。であるにも関わらず御判断の正誤を私が判断できることなどどうしてありえようか。理屈をこね回せばこね回すほど私は御父様から遠ざかり、救いから遠ざかっていく。み言葉を思考だけで理解できるという傲慢さを彼らに見るし、自分の心と体の闘いを認識してはいないか、或いは既に自己の矛盾性に妥協している。すなわち救いを必要とはしていない。それを否定するのであれば愛の減少感が恨みに変わったものを胸の内に隠しているはずだ。時が経れば経るほどに、共産主義者と同じ偏狭思考と恨みの轍にはまり込んでいくだろう。彼らが論理をもって闘いを挑むなら、私は論理を超えた天への精誠をもって闘いを受けるだろう。
奇跡を信じる
寂しいとき、悲しいとき、心が挫けて立ち上がれないとき、そういうときこそ奇跡を信じて期待する。御父様に出会い、祝福に与り、しかし願われもし期待もした実りを受け取れずにいる現実がある。年数を経れば経るほどに現実は残酷さを増していくようだ。撒いた種しか刈り入れることはできないと言われれば納得せざるを得ないだろう。手をかけた分だけの実りしか受け取れないと言われれば、無言で頷くしかないだろう。しかし感情として納得できないものがあって、その感情はどうしようもない。愛の減少感とはそういうものだ。寂しいとき、悲しいとき、心が挫けて立ち上がれないとき、そのように愛の減少感を覚えるとき、奇跡を信じて期待して欲しい。なまじ原理のみ言葉をかじっていると、奇跡など起こりようも無いと言うことを理解する。たとえ奇跡は起こるとしても、私の上に起こる奇跡などありえないという絶対的な信仰をもっている。しかし奇跡は起こる。奇跡を信じる者には必ず起こる。奇跡を起こすほどの心情圏の深みに入っていけばいくほど、一気に感嘆して歓びが爆発する感情の高みへ上昇する。私に願い事が起こるなら、奇跡として嗚咽するほどに感謝を捧げるだろうに、他の人にそのことは起こり、その人はさして感謝もせずに当然のように受け取っている。しかしこの逆の立場、私が他の人の切なる願いを当然のように受けていることも往々にしてあるということも理解して、私が気付かない抱えきれないほどの奇跡的恩恵に与っていることは認めるべきだ。奇跡の星が存在し、奇跡の星に生まれて生きていること自体が信じられないほどの奇跡だ。私が願う奇跡など奇跡のうちに数えられることもない。願いは当然のことのように実現する。ただ、、、願い続け、信じ続ける力が必要だ。
2012年3月24日土曜日
「知る」ということを考える
聖書に出てくる「知る」という言葉の中には、現代の地上的意味での「知る」という言葉でさらっと流せない部分がある。現代人にとっては聖書の表記に問題があると言えなくもないが、言葉ひとつひとつに込められている霊的な深さを、聖書を手にする者全てに伝えることは難しい。特に現代の、言葉を極めて外的地上的な把握に留めている場合、その本質の意味を深く掘り下げることがもともと困難ではある。しかしそれで良しとしたり諦めたりするのではなく、求める意志を常に保持しながらみ言葉に対するとき、閉ざされていた霊的な深みに分け入ることができるようになる。「知る」という言葉の聖書の使われ方を見るとき、知るという言葉の霊的な意味を理解できる。そういった追及心の必要性は御父様のみ言葉を訓読するにも当然当て嵌まり、祈り求める姿勢なくしてみ言葉に宿る心情の深みに分け入ることはできない。心情の深みとは御父様が開拓された霊的世界、霊的宇宙の深みでもある。ところで、「知る」という言葉だが、「善悪知るの木」、更に「アダムはその妻エバを知った」と続き、「カインはその妻を知った」、そうしてソドムゴモラを滅ぼす為に来たみ使い達を保護したロトに向かって「お前のところに来た人々を出しなさい。我々は彼らを知るであろう」と言ったソドムの民。「善悪知るの木」は取り敢えず置いておいて、「知る」という言葉が「ひとつになる」という意味で用いられ、敢えて抵抗ある言葉にすると「孕ませる」という意味で用いられている。神様の天地創造を言う場合、陽陰に分けられたものがひとつになって新たなものを造られた過程であると言え、即ち孕ませた過程を創造過程と言うこともできる。創造された新たな対象に対しても、「生めよ殖えよ地に満ちよ」と言われ、ひとつになって孕んで繁殖することを願われている。孕むということを外的なイメージでしか表象できない霊的無知人間であるけれども、私の中で熟考の末の閃きであるとか、悩んだ末に一つの選択を導き出す場合、それは内的霊的な知る過程であり、それは霊をひとつにして孕ます創造過程を為していると言える。私自身が新しい自分を見出す場合、内的霊的に孕んだ結果を新しい自分として見出すのであり、逆に、私が墜ちるのも悪なる霊と授受し、ひとつとなって孕んだ悪の結果を墜ちた自分として見出している。「知る」を「認識する」とも言うけれど、理解し認識した事柄は私の中で内的霊的に孕ませた結果対象であり、「知る」とはそういう深い意味があることを納得すれば、内的霊的な創造と外的地上的な創造の原因結果の関係を理解でき、私達はその原理を持って全てを主管していく。「汝自身を知る」とは、新しい私の創造を言う。
2012年3月22日木曜日
社会貢献
個人生活という時空があるように、家庭生活という時空がある。そして更に社会生活という時空の中でも私達は存在している。その時空の中に存在するとは、その時空の中に関わり合う、即ち良くも悪くも授受作用という相対関係を継続していることを存在と言う。前にも記したように、私達の意識の中には国家、であるとか世界、であるとかは未だその時空に存在して関わり合ってはいない。国家の時空、世界の時空に両足をしっかり下ろして存在してはいない。国家観、世界観を自分の言葉で語ることはない。社会生活という時空には社会貢献として私は関わっている。私の関わる社会貢献の大方はビジネスという形を取っている。ビジネスの発展が社会的インフラの内外の成長をここまで支えてきたと言って間違いはないだろう。システムやツールがここまで進化し、家庭生活や個人生活にも利益をもたらしている事実を否定してはならない。私が社会貢献を意志せずに、社会への避難ばかりを口にしながら社会的利益を享受することは、社会に対して大きな負債を負っていることになる。社会生活という時空で存在しながら、私達の中に社会貢献という認識が大きく欠けているのは問題だ。この社会を非原理世界と捉え、復帰を非原理圏から原理圏に移行する、言い換えればサタン圏から奪い取るという捉え方は、勝利された真の父母が立ってサタン圏ではなくカイン圏であるという今の時代圏の認識からすれば大きなズレがある。私達は私達自身が先ず御父様の勝利圏に合わせて変わらなければならない。旧態依然の認識、そして意識が、私達の成長と発展を大きく阻害している。過去のあるひと時、御父様は私達の神学校に子供をやらず、この世の名門大学に入れることを避難された時期があった。しかし「実体み言葉宣布大会」では御子女様、お孫様達が名門大学にいかれたことに触れ、更に誇っておられる。私は歴史的大会に於いてそのような内容に触れられることに対して不自然さを覚えたが、御父様は敢えてわざわざ歴史的大会でそのことに触れられたのだと理解した。カイン社会に於いて功績を積むことを、勝利した今の時代は願われている。御父様が勝利され頂点に立たれた今は、サタン世界として排するのではなく、アベル圏カイン圏として抱擁しておられる。カイン圏に迎合して引き摺られるのではなくて、カイン圏で証しを立ててアベル圏に引き上げる。そういう新たな時代的認識を、私達は持たなければならない。
新生
夜が去って朝が来る。何度も何度も朝が来る。そして朝になる度に私は生まれ変わる。人生の朝は生まれた時にやってくる。人生の朝は夜を知らずに迎えている。前の日を忘れたままで人生の朝を迎えている。だから誕生はゼロからのスタートだと思っている。しかし忘れた過去の人生が存在している。覚えていなくても過去の人生があり、過去の人生の上に現在の人生は立っている。誕生は一からのスタートと言えるかも知れないが、決してゼロからのスタートではない。人生と言う一括りがあるように、今日と言う一括りがある。今日と言う一括りの朝、私は生まれ変わっている。朝目覚めて今日と言う一日を準備する。青年期に私の理想や希望を抱くように、朝目覚めて今日と言う一日の理想や希望を胸に備える。誰の人生にも深い意味があるように、今日と言う一日には今日一日の深い意味がある。何気なしに朝を迎え、何気なしに同じ行動パターンを繰り返しているけれども、今日には今日でしか出会えない出会いがあり、今日でしか味わえない感情があり、今日でしか創造できない事柄がある。思春期に漲るあの天を突くほどの生命感を、そして躍動感を、私の中に漲らせて朝の出発に準備すべきだ。前世に引き摺られたまま人は人生を出発しないように、昨日までの挫折にも引き摺られず、昨日までの栄光にも胡坐(あぐら)をかかず、今日と言う一日を出発する。今日も朝日が昇る。新しい太陽が昇る。そして私の中にも新しい太陽が昇る。私の中に昇る新しい太陽を見ることができる者が、本当の意味で今日を生きる。
腰掛け
「腰かけ」という言葉をよく使う。ウエイトレスで働きたいと言う者は100%が腰かけだ。就労を社会奉仕として認識するか、生活手段だと認識するかの違いは大きい。当面の生活手段としてアプライするのを腰かけと言う。認識がどうであろうとやることは所詮同じだから、どう捉えようと同じ事だと思うかも知れないが、認識の違いで天と地の差が出てくる。この動機の違い、認識の違いは時間を経るに従って外的様相を目に見えて変えて行く。動機が異なればその結果としての実りは異なるからだ。原理の生活化という言葉をよく口にするが、み言葉は公的なものであり生活は元来私的なものだ。本当は逆で、私的生活の公的原理化とすべきではないかと私は感じる。言われるがままに歩んでいるつもりなのに、生活と原理はいつまでも乖離して、生活が原理化されそうにはないと多くの兄弟は感じるだろう。その感覚は正しく、生活が原理化されるそんな理想の状態が見えるためには、或る意識の目覚めが必要となる。その自分革命は内的霊的なものなので人それぞれ異なるし説明できるものではないが、無理に言葉にするなら、受動的意識から能動的意識への変革と言うことになるだろう。何の為の信仰かという問いを掲げたとき、その答え如何によっては信仰にも腰掛け的な信仰がある。み言葉に出会い御父様に出会えた歓びで溌剌として歩み、形ある理想や希望に燃えているうちはまだ腰掛け的な信仰段階だ。その形ある理想や希望が粉々に砕けたとき、腰掛け的信仰も砕け本物の信仰が芽を出してくる。信仰としての理想や希望は、外的にイメージできる理想や希望とは違っている。教会を離れて教会を批判する元食口と名乗る者達は、自分の描いていた理想や希望を砕かれたことで教会を非難している。自分の描く理想や希望は、たとえそれが信仰的気分を含んでいたとしても個を中心とした枠から出ることは無い。自分を中心とした家庭、自分を中心とした社会、自分を中心とした宇宙、そして自分あっての御父母様であり自分あっての神様だ。信仰としての理想や希望とは全体的なものであり公的なものだ。自分が否定される立場で芽生える理想や希望こそが本物だ。
2012年3月19日月曜日
雪国
長いトンネルを抜ければまさしくそこは雪国で、視界は白い世界に一変する。まさか三月も中旬にかかろうというこの時に帰国して、こんな大雪に見舞われるとは思いもしなかった。一日で降り止むかと思いきや、降り方は衰えるばかりか益々激しく、白と言うよりは灰色の世界を更に色濃くしていく。雪も光を当てない限りは、灰色のうち沈んだ厄介者以外の何物でもない。雪の舞い降りる暗い空を見上げて、不安で破裂しそうな心を静めた、そんな若い頃の雪の印象は今ではもう味わえない。ひたすら止んでくれと願うばかりの私になってしまった。しかしそういう人並な大人の自分も悪くない。それでこそ年老いた親と同じ目線で感情を分かち、同じ話題で会話することができる。暫くぶりに帰ったので、辛うじて動ける親を動けるうちに連れ出してやりたいと思い、道路の雪かきを待って浜田まで車を走らせて見た。スノータイヤを履いていて早く走れる訳ではないが、雪も小雪になってきて、少し用心すれば雪のない下界に下りることができる。雪のない町に着くと、食糧やら、日用品も買い揃えて夕刻近くに帰途に就いた。帰途に就いたは良いが、山陰の小さな町を離れて標高を駆け上って行くと、ちらついていた雪は次第に吹雪となって行く手を遮り始める。強風に舞うカーテンのように、強く波打つ灰色の簾をどこまでもかき分けて登るはめになってしまった。車は前進はするけれども、安全を確保しようとすれば前を凝視し続けなければならない。吹雪に難儀しながら、ヘッドライトに照らされる微かな視界を辿って神経を集中させ運転し続けてはいるが、と同時にいろんな思いも胸の内に去来する。年老いた親と病の妻を乗せている。これから先の親のこと、そしてこれから先の妻のこと。この荒れ狂う吹雪にハンドルを委ねてしまえば全ての患いが終わる、、。神様を知らず、霊界がわからなければ、普通の人間がそういう気持ちに意志を委ねてしまうのも理解できるような気がする。表面上はどれほど平静を装っているとしても、内面に於いてはありとあらゆる想いと選択肢を限りなく渡り続けている。その中のひとつを意志として選択するに影響を与えるのは、多くの部分で血に流れる霊的背後だろう。自分だけで生きているようで、実は抗えない血に流れるものが私を突き動かしている。その血に流れる運命宿命さえも変えるものがあるとしたら、それは事実上私と言う血脈の歴史を翻すことになる。その奇跡的恩恵時代に息をしているという自覚は、統一食口であればこそだろう。最後の急坂を上り詰めて古いトンネルを超えると雪は嘘のように止んでいて、所々に配された街灯の光に照らされた雪の表面は綿のようにやわらかかった。久しぶりに帰郷した私に、故郷はやっと優しい顔を見せてくれた。
2012年3月17日土曜日
感覚的愛
人は老いる。老いてその形は崩れて行く。どれほど美形を誇っていても、どれほど滑らかな凹凸に心酔していても、丸みのある丘は崩れて見る影もなくなり、潤いのある地表は荒れ果ててゆく。外的な表れは私の一部にすぎないのに、外的なことに殆どの意識を置けば、魂の在り様を蔑ろにしながらその棲家だけを整えることに精根を使い果たしていく。そして私の歓びは肉体を通して受け取る感覚的歓びのみだと信じ、肉体礼賛に終始する。愛を地上のことだけに留めようとすればエロスに限られてしまうだろう。エロスだけで人間は満足するものではない。エロスに偏れば偏るほど愛の本質から遠ざかり、愛を得ているつもりなのに愛の渇きを覚えていく。潤いに満ちた生命の源泉だと疑わなかった愛と言う名のエロスは、霊界を切り離して地上にのみ意識を向けさせ、他を切り離して自分にのみ意識を向けさせ、更に、心魂を切り離して肉体にのみ意識を向けさす。どこまでもどこまでも自己中心に向かわせるものを堕落的エロスは含んでいる。全体があって個は生きる。全体が優先されて個は為に生きる存在になれる。真の愛があってエロスは活きる。真の愛が優先されてエロスはその個に陥りやすい魅惑を公的に貢献させる。真の愛が、愛と呼ばれていた愛的括りの全てを死の境地から生命圏に引き上げるだろう。老いるに従って、求めども求めども、エロスの神は遠ざかって行った。どれほど懇願しようとも、若返りの為に精根を注ごうとも、それでもエロスの神は時の霊の配下にあり、青年期を超えて老年期には生き永らえることができないでいる。しかし真の愛を受け取り差し出すことができるなら、エロスの愛でしか受け取れないと思っていた愛に酔う感覚を、より深く、より高く、より広く酔いしれることができるはずだ。その時、感覚的なエロスの愛はその次元を上げたと言うことができるだろう。
2012年3月12日月曜日
今日の想い 385
三月も中旬に入ったが、まだ寒い日々は続いている。ワシントンを発って成田に入国した時は随分暖かかったが、そのあくる日には落ち込むように寒くなり、寒さが苦手な妻は一変に体調を壊してしまった。あれこれとスケジュールを立てていたが、全て白紙に戻して殆どの日数を実家で休むしかなかった。あの震災から一年が経つ。テレビは連日地震と津波を振り返り検証を試みている。普通に思えば、被災した者は運命を恨むだろうし、災害から逃れた者は被災した者に対して負債を覚える。負債を覚えた者たちは、地震や津波は天災として、原発事故は人災として結論付けて、政府を攻撃することで被災者に対しての負債から逃れて政府に負債を負わせようと必死になっている。しかし被災して打たれた者達は、打たれた者として清算されて達観したものが伺える。清算されれば過去の負債に引き摺られることはない。未来に向かうことだけを意志している。災害から逃れた者達は清算されない過去に引き摺られ、被災した者達は未来に向かうことができる。だから、日本の未来は被災した彼らのものであり、希望の芽として芽生えている。被災から逃れた者達がその未来を共にしたいと思うなら、自らの犠牲をもって被災した者達を支えるのは当然のことだろう。政府を非難する前に瓦礫の一欠けらでも自分の家に持ち帰ることだ。犠牲を厭う者達に限って何もせずに声高に政府非難を口にする。マスコミはその代弁者でしかない。マスコミが口を閉ざさない限り、日本は過去に引き摺られ続ける。
2012年3月8日木曜日
危機感
危機感を持って歩むということが大切だろう。私達に今必要なのは危機感だ。御父様に繋がる中心者を頂いて歩むとしても、従っていれば何の不安もないと思うだけでは不足な、今の時代を生きている。ある中心に従う兄弟達が、その中心のズレによって御父様の願いとは別の方向へ進むこともあり得るし、危機感なくして闘うべきものを見失ってもいる。現にそういう問題が表面化していて、だから誰にも従わず、御父様との心情因縁だけを拠り所として歩めばそれで十分だ、と思う者もいる。しかしそれは熟慮が足りない。御父様に繋がる内外の血脈があって、私達は系列の中心者を通して御父様に繋がっている。中心に従ったことが問題ではなくて、本性だけではない堕落性もある中心に対して、私はこの中心の本性に従うのであり堕落性に従う訳ではないということが分かれば、ただ中心に従っていれば何の不安もないと言うことにはならない。中心者の中の御父様に繋がっている部分に私も繋がっているという認識があれば、もしその中心者が御父様から袂を分かつようになった時、その中心にそのまま進退をも委ねてしまって御父様の願いからずれて行くような事にはならないはずだ。だから従って行くにしても、常に私の中に闘いを明確にさせる危機感の有無が問われる。そして危機感は必ず恐れの感情を含んでいるべきだ。人間は恐れを感じて初めて恐れるものへの闘う姿勢が用意されるのであって、恐れる気持ちが私の中にない相手に対しては闘う用意すらできてはいない。恐ろしいから闘うのであって、恐ろしくない闘いなど在り得ない。私の中の相手に対する恐れの感情を克己できれば、その実である実体的で表面的な闘いは自ずと勝利に向かう。内的霊的勝利こそ、外的実体的勝利に繋がる。闘うときに表面的外的な作戦は、恐れを克服しようとする意識の上で為されるべきであって、どんなに作戦を綿密に立てて実行するにしてもそれは勝利のひとつの必要条件であって絶対条件とはならない。先ず危機感(恐れの感情)があって、そしてその恐れの感情、即ち恐れという低次霊を克服する過程で勝利の女神は微笑む。これが勝利のプロセスであって、危機感(恐れ)なしではプロセスの入り口にすら立ってはいない。
2012年3月3日土曜日
神様像
統一食口は当然のように神様の存在を信じて疑わない。神様はいつも私と共におられるとまで口にする。そしてそれは確かに正しくはある。しかしそう言いながらも神様が直接私に語りかけたことはないし、御父様が説明される神様がどうも良くはわかっていない。ましてや神様の結婚式やら夜昼の神様やら、御父様の口から飛び出す神様の説明はほとんど理解できず、掴みどころのない神様をそのまま私の神様として漠然と信じている。正午定着の位置で認識した神様ではなく、私の神様像には堕落的フィルターが何重にもかけられて届いている。神様と私の間に屈折したものが入り込んでいるから、直接的に神様と繋がることは堕落人間にはできない。だからメシヤが必要であり、真の父母が必要となる。真の父母を通してしか神様に繋がる道はなく、御父様が堕落人間が神様に出会える道として橋を造り高速道路を造られた、それが神様に直結する内的霊的血脈であり、私達はその開拓された道を歩んでいる。中には霊的兄弟もいて、直接的な啓示を稀に受けることもあるが、啓示と主張するものの殆どは如何わしい。本来神様への道は御父様が開拓された一つの内的霊的血脈だけであり、どこでもドアでワープできる勝手な抜け道などない。公認された道を外れずに正しく前進するためには条件的生活がどうしても欠かせない。いろんな信仰条件があるなかで特に重要視されるのは訓読で、訓読の条件は私の魂に浸透しているサタン的なものを洗い流し、思考、感情、意志という魂の活動にみ言葉からくる力を受け取るようになる。堕落的思考が本然的叡智に、堕落的感情が本然的心情に、それは訓読からくる力を受け取った者しか理解できないだろう。掴みどころのない漠然としていた神様像は、み言葉によって変革された心魂の活動を通して霧が晴れ、次第に明らかになって行く。それでもまだ多くの堕落的フィルターが掛けられてはいるが、この道を辿って行けばどんどん外されていって、確実に神様に出会えるという事実が私達の希望に違いない。
2012年3月2日金曜日
信仰路程
私達の中に歪んだ形で形成されている信仰内容がある。それは財力であれ権力であれ、それを得てしまうと信仰が揺らぎやすく、なるべくそういったものから距離を置いた方が信仰を保ちやすいと思っている。だから経済的貧しさを良しとし、決定して指示采配する責任を負う立場も嫌う。しかし保つほどの信仰内容とは一体何だろうか。確かに自分の一存で動かせる金があり、使える人や組織がある責任者は、行動に対して多くの避難を受けやすいし、一歩間違えば背信のレッテルを貼られてしまいかねない。でも周りは私をどう思おうとも、周りの目が私の信仰を決定する訳ではない。批難覚悟で、結果責任を引き受けることを覚悟で、それでも自分の良心に鑑みて行動したのであれば自分の信仰を失うことはない。私が信仰だと認識しているものも、実は信仰だと思わされ信仰らしさを被った堕落性だという場合が往々にしてある。責任を引き受けようとしないのは自己保身の為のみ旨からの逃げでしかない。護ろうとしているのは信仰ではなく堕落した自己だと言うことを、自分自身にはっきり宣言しなければ絶対信仰の道などとてもおぼつかない。信仰という言葉で一括りにしているけれど、信仰には段階的ステージがある。信仰ステージの段階を上に行けば行くほどその権限は大きくなり、受け取るものも多くなるけれど、一歩間違えば千年をもって負債を返すほどの多大な禍根を残すことになる。段階を上り詰めるほどにその恐怖と対峙しなければならないのが本来の信仰の道だ。ヒマラヤ山脈の峻嶺に上り詰めることが精神的高揚を受け取ると同時にどれ程危険であるかを想像できれば、信仰ステージを上って行くことの意味を少しは理解できるだろう。信仰の道には過去の信仰者の屍が積み上げられており、その上を踏み締めて登っていかなければならない。私達が出会う試練の局面毎に、討ち死にした彼らの内的霊的状況が再現される。試練を超えて足を踏み出す一歩に、彼らの超えられなかった恨と私に対する懇願が集中する。
登録:
投稿 (Atom)