2012年8月6日月曜日
今日の想い 437
こんなつもりではなかった、と思う。事ある毎に現実を直視させられ、逃げ場のない感情に溺れながら、こんなつもりではなかったと思う。神様から与えられるであろう期待が裏切られたと取るのか、あるいは逆に神様に捧げなければならない私への期待を裏切ってしまったと受け取るのか、おそらく私の寂しくも惨めな感情は、貰えるはずだと思っている前者としての受け身的な私だろう。しかし、後者の位置に立たなければ私は私の中で神様から見捨てられた者として完結させてしまう。内面において失敗の烙印を私自身がおした形になる。逃げ場のない感情に溺れそうになり、どうにも、顔を落とし視線を落として崩れ折れそうになる時、その時こそ私はサタンに試されている。感情において試されている。御父様の心情に繋がる魂の糸がしっかり絆として結ばれているのか、或いは糸の切れた凧のように個人的感情に翻弄されるのか、両者のはざ間で試されている。個人的な感情を主管し、どれほど愛の減少感、やるせない思い、泣き喚きたい衝動に駆られるとしても、私は御父様の息子であることを自らに断言して言い聞かせ、辛くてもしんどくても顔を上げ、空を仰ぎ、背筋を反らして、先ず一歩を踏み出す。そして敢えて天に向かってこう言う。御父様、どうぞ私を見ていてください。他人の目にどう映るか気にすることはない。他人の心ない言葉に左右される必要もない。こういう時こそ私は私だ。私には私の通過すべき心情地点があって、他人から見れば回り道らしい道を歩んでいる。もし過去を教訓とするのではなく過去に引き摺られて感情の海を時化(しけ)さすなら、それは悪神の業だ。善神は過去を材料に感情を弄ぶことはしない。ひたすら今の現状を明日の希望に繋げる為に働きかける。この世に生まれ落ちて、あらゆる寂しい境遇を渡り歩くとしても、寂しさを食べ続ける使命を帯びて生まれた以上、その使命に殉じることが天の願いでもあり、私の本質もそう願って生きているはずだ。こんなつもりではなかったと表面的には思えても、実はこんなつもりだった。さらにどんなに悲惨な人生でも、そうであればあるほど御父様の心情圏に近いはずだ。御父様ほど悲惨な人生を歩まれた方はいないだろう。私達はその意味で苦労が感謝であり、苦労が歓びだ。苦しい思いを甘受しながら、重いものを背負いながら、私は常に御父様と共にあるという誇りで生きている。誇りで生きれば精神が立つ。