私達の認識の多くは自体自覚による意識から来ている。もし私が他体自覚に立つならその認識は自体自覚の認識とは異なるものだろう。意識が悟性と感性を働かせて認識に至る、即ち意識が正であり、悟性感性に分かれ、認識という合成を得る。意識が自体自覚的なものであるなら、分かれる悟性感性も自体自覚的であり、合成体としての認識も自体自覚的な認識となる。他体自覚的な意識が私の中にあるのかと問えば、絶対信仰、絶対服従の位置で意志するものは他体自覚的であり、私の中で意志されない意志、すなわち習慣的惰性的な考え、感情、行動はすべて自体自覚的だ。要するに自体自覚は私の心魂に染みついていて離れることはないし、他体自覚的意識の種はあるはずだが芽が出ていないので確認のしようがない。私が他体自覚的意識を取り戻す為には、安寧な心魂に荒波が、時化が、津波が、何度も何度も押し寄せなければならないだろう。御父様への帰依故に、み旨故に、何度も何度も辛酸を舐め、悲痛な心も苦労も味わわなければ他体自覚の意識の芽は生えてはこないだろう。確かに他体自覚は為にある存在としての自覚ではあるが、心魂に染み込んで既に私という存在そのものが自体自覚的であるので、自己中心を改めて他の為に生きればよいと言うような単純なものではない。この血の全てを抜き取り、この心魂を抹殺させて、新しい本然の血を流しこみ、新しい心魂を戴くと言えるような、私の全てが奪われ最後には生命さえも捨てられる路程を通過してこそ自体から他体へと意識改革が為せる。