2012年8月16日木曜日

今日の想い 440

私達は経験したこと以上の言葉に対する意味を持ち合わせてはいない。親に対して経験したこと、親となって経験したこと、親という意味はその自分の経験以上の親の意味を私は持ち合わせてはいない。だから人それぞれに親の意味は異なっていて、私の親に対する想いと、あなたの親に対する想いとは違う。真の父母だと説明されても、親の意味がそれぞれに異なり、本来の親としての理解から誰もが遠く離れているなら、御父様に向かう想いは未だ本物ではないだろう。私の中にも少なからず距離がある。敢えて言葉にしたくはないけれど、御父様から距離を置いて、冷めた私が事実としてここにいる。しかしそうであっても、私は御父様こそ私の本当の親であることを知っている。親以上の親であることを知っている。私の為に全てを与えられる。私の為に全てを犠牲にされる。私を想って自分以上に心配され、私の為に涙もひとしきり流される。私をどのようにでも救おうとされ、常に自分の側にいて欲しいと思われている。それがありえない幻想であり、私の思い込みへの陶酔に過ぎないと言うなら、真の父母という言葉は私には用意されていないことになる。誰よりも、敢えて言うなら御子女様に対するよりも、私を子として想っておられる御父様でこそ、真の父母という言葉が存在する。御父様は人類全てを想って誰よりも涙を流され、誰よりも苦労され、そして誰よりも悲哀を覚えられ、だから誰に対しても、自分はこんなに苦労した、こんなに悲惨だったという訴えに対する親としての言葉を用意しておられる。親は子の為に、子供以上の悲惨な立場を担おうとされる。だから御父様は人類の親として、敢えて誰よりも悲惨な道を歩まれることを意志されたとも言える。御父様は今集中治療室におられる。その御歳で精神的にも肉体的にも酷使されれば、そうなることはわかっておられたはずだ。しかしそれでも真の親は真の親としての歩みを止められる事はない。私達は御父様の生き様の一部始終を目に焼き付け、身を持って真の親の意味を教えようとされる御父様を私の魂に刻みこむ。私がどれほど御父様から距離を置いているとしても、御父様は子としての私という存在を常に間近に感じておられるはずだ。しかし私は、、、感情をどこかに置き忘れたままなのか、何をするでもなくこの位置に佇んだままでいる。報せを受けながら、何も出来ずにただ佇んでいる。