2012年8月14日火曜日

今日の想い 439

絶対性と言われることに対して、私達は与えられた主体相対への貞操を誓い、浮気や離婚をすることもなく生涯、いや永遠の伴侶として添い遂げることを意味していると思っている。しかしそうであるなら御父様自身についてはどうなのかと言うことになる。御父様は今の御母様が最初ではないし、今の御母様になられてからも別の関係による御子様もおられる。御父様が再臨のメシヤではないという反対派の多くは、その言動の不一致を大きな理由として反対している。御父様を認める私達の多くも、事実を知らないか敢えて知ろうとはしない食口もおり、或いは知っていてもメシヤだから何でもアリだと自分や周りに言い聞かせている食口もおり、或いは未だ知らされない摂理的事柄があってのことで、事更に踏み込むべきではないと思っている食口もいて様々だ。以前、内情を全て知っている御家庭の内側におられた方の本が店頭に並んだことがあるが、そこに書かれている内容を事実か否か判断するのは読み手に委ねられるとしても、御父様の口から直接聞いてしまえば無視することも否定することもできない。私は直接聞いた以上、その事実をどう私は捉えるべきなのかという試練を受けることになった。勿論メシヤに対する私の悟性理解で御父様を受け入れている訳ではないので、どんな事実を突き付けられても、私の中では御父様が真の父母であることに変わりはないのだが、そうではなくて私の絶対性への認識が本当に正しいのかどうかを問わざるを得なくなったと言うことだ。タマルの行動、またマリアの行動を道徳的観点から見るなら首を傾げざるを得ないが(絶対性からも反するが)、イエス様の誕生に必要不可欠の行動であることは食口なら認めるはずで、御父様の行動に対しても道徳的観点からは否定されても摂理的に必要不可欠なものがあるはずだという見地には立てる。生殖器をして堕落したその復帰摂理上、胎を含む生殖器をしてサタンから奪い返さざるを得ない。祝福家庭を考えるときに、祝福家庭にもそれぞれいろんな事情があって、本人は絶対性を立てても夫婦として絶対性を立てることができずにいる家庭もある。そうなると絶対性が裁きとなる。真の父母である御父様御自身も問われ(裁かれ)、どうすることもできないそう言った祝福家庭も問われる(裁かれる)絶対性なのかどうか。御子女様の中には離婚しておられる方もおられるのであり、そこにも問われる絶対性なのかどうか。私達の殆どの認識は自体自覚の意識によるものであって、私達の絶対性の認識も自体自覚的な認識を超えていないのかも知れない。確かに、私自身も相対も内的霊的に堕落的なもの全てから決別している訳ではないのに、イメージとして捉えている絶対性を宛がえただけで、御父様の前で絶対性に生きていますとはとても言えないだろう。ただ絶対性について私がひとつ確信できることは、絶対性を規律として、或いは裁きとして示されたのではなくて、御父母様の勝利の上で絶対性を祝福として、恩恵として与えて下さったと言うことだ。そうであるなら復帰摂理上、メシヤとして真の父母としての宿命上、タマルやマリヤのようにサタンから奪い返す為にそういう経路も辿らざるを得なかった御父様であるけれども、勝利された今、私達はサタンに讒訴されずに絶対性に生きることができるという恩恵という意味で、絶対性を受け取れる。