2012年8月20日月曜日

今日の想い 443

高齢になられた御父様の御様子を見ながらも、私達は依然X-DAYに対する実感はなかったと言っていい。しかし今回の件で、食口の多くが実感として受け取ったはずだ。御父様のお身体の心配もさることながら、その日その時が必ず来ることを実感として思い知らされ、遠くないその時、私がどうなり、教会がどうなり、摂理の方向性がどうなるのか。それを今の今詮索することは戴けないが、内的な準備は今の内に為されて決して早くはない。強いて言えば、御父様を受け入れたその時から、常に準備に余念なく歩むべきだったのだろう。今回の、医者をして危険と言わしめるほどの御自身の犠牲が何を意味しているのか。世界会長が触れられたように、先回手術された折にはイラク戦争が起こったが、今回のことと関連されて外的な意味に於いては局地的とは言えない大きな戦争のにおいを感じ取れなくもない。しかしそれをも詮索すべきではないのかも知れないが、内的霊的な意味を問うことは非常に大切だ。全ての出来事に過去の結果としての事柄があると同時に、これからの新しい目標地点へ向かう教訓と準備(を備える決意、覚悟)が含まれている。希望的ではない目標地点を見るなら悪神の業であるが、希望の目標地点を見てそこに向かう意志を供えるなら神様が働いている。今回のことを通して、その日その時が間近であるので摂理を急速に推し進めるようにという声を誰もが聞いたことだろう。要するに基元節をどう迎え、その為に何を準備すべきかだ。X-DAYを踏まえるならD-DAYをどう迎えたらいいのかと言うことだ。あと半年も残ってはいない。勿論外的には指示事項をその通りに歩むことだけれども、私達ひとりひとりが立てるべき内的な課題、内的な基準があるはずだ。それを供えることができなければ基元節を本当の意味で迎えることはできないだろう。御聖婚式のその場に参席しているとしても内的霊的に参席しているのかどうか。正しく内的霊的に再祝福を受けることができるのかどうか。今、私の中にそれに向かう内的な高まり、内的な熱を感じ取れないとするなら、基元節を迎える準備が為されていないか、当ての外れたものだと気付くべきだ。私という存在が、常に揺れ動き、どのようにも揺れ動いているX存在だという認識があって、それ故に絶対信仰、絶対服従をどうしても立てるべきだと意志を差出し続けながら、その過程で御父様の御心情の一欠けら、一欠けらを受け取っている実感がなければ、私はズレていて基元節で正しく御父様にまみえることはできない。