2012年8月7日火曜日

講演に参加して 2

宗教者らしい、或いは信仰者らしいという独自的なイメージを個としても全体としても持っていて、そのイメージが壊される発言がなされると途端に感情の反発が起こり、そしてその反発心から発言に対する異議としての論理を構成する。今回の理事長の講演ツアーは宗教講演ではないだろう。現実として社会に起こっている事実を原理的裏付けをもって説明され、我々がイメージしている平和理想世界に如何に巧妙にサタンが関与しているかを指し示された。福祉政策も善の繁殖として用いられる場合、それは良しとされるだろうけれど、現実として悪の繁殖のツールとして働いている現状では現民主社会の行政府にサタンが関与していることになる。今回の講演を受けて、平和理想に関するみ言葉が反故になる訳でもないし、直ぐにも銃剣を手にする訳でもない。単細胞の集まりだと食口達を思っているから頭ごなしに反発してくる。確かに平和軍、平和警察として具体的に武器を手にする状況も将来的には有り得ることはその通りだとしても、だからと言って単細胞の集まりのように、何の思考も働かせず全体主義的に動いて行くはずはない。表題は強い韓国だけれども、そのセンセーショナルな表題で大きく関心を引きながら、奪われている自由を復帰することが命題となっている。取りようによっては部分部分を切り取ることでどのようにでも反発できるだろうが、おそらく反発心や異議も十分予想しての発言のはずだ。しかし御父母様が勝利された内的霊的な基盤があればこそ、今でこそ社会にまで下ろした位置で組織としてこう言う声を上げることができる。銃剣を溶かしてすきやくわに変える時だと言われて、その言葉通りにすきやくわを作る者はいないように、銃剣そのものが完全悪でなくすべきだと言われていると捉える者も少ないだろう。武器をなくしても人間身体として拳でも蹴りでも十分武器になる。愛を、ただ右の頬を打たれれば左の頬も差出し的な捉え方だけに留めたり、平和を、全ての武器と言う武器が地上から消え失せた世界と捉えたりと言うのは、具体的な形にすればするほど愛の幻想であり平和の幻想に近い。