2012年8月24日金曜日
今日の想い 444
家族の誰かが病気で危険な状態に陥れば、どれほど心痛が大きく、寝るに寝れず食べるに食べれず生きた心地もせず、一歩を踏み出し一秒一秒に踏み入れるのにその空間の壁、時間の壁がどれほど厚く重いものかを実感する。その重みが、家族の一人に対する私の愛の重みでもある。御父様の状況を知らされて食口の誰もが心配しているだろう。精誠も供えて御快復を強く強く望んでいるだろう。しかし家族の者への想いと、御父様への想いと、比較してどうなのかを問うて見なければならない。質的に同じものだと言えるのか。或いは想いの密度がより濃いものであるのかどうか。決してこの話をして皆の想いを蔑ろにしたい訳でもないし、責めるつもりもないことは解かって戴きたい。ただそれぞれの中で、御父様に向かう情の強さを深め、父子の因縁を更に増やしたいという意志がなければ、御父様が御自身の身を文字通り削りながら差し出されているものに応えようとはしていない。家族への想いと比べてどうかという量的なものもさることながら、その質を家族感情を超えた想いに次元を上げるべきだ。身を横に伏せられて、チューブやコードに繋がれておられる御父様を直接見るのであればその感情も強まると思うかも知れないが、それは人間的な感情であり、御父様と私との父子の関係が、感情的人間的なものから心情的天的なものへと次元を上げて外的枷を外してこそ御父様の願いに応えることになる。私に取って、御父様の間近で心痛される御子女様は或る意味私の代身であられ、身を削られ痛みに侵食される御父様の心魂の、その一片を私の中に見て、それこそが私に取っての本質で、御子女様が病室で御父様に重い視線を向けられるのと等しいものであり、その内なる御父様の解放を私が担っている。様々な課題や問題が私の周りで犇めいていて、普通私はそれらに翻弄されるままになっているが、実はそれらは投射された影であって影をいくらどうこうしようとしてもどうなるものでもない。投射された影を見ながら内にある私の問題の本質を見なければならない。私の内側に御父様がおられるのがわかれば、その御父様の状況が物事として周囲に起こる投射された影に現れてくるのを見る。そうなると風を受けた草木が泣き、暗雲の空が痛みで唸る。精誠を供えようと断食でもすれば、その経過の体験の隅々に御父様の想いを見る。御父様が間近におられるどころか、私の中におられ、痛みを負われる御父様を実感してこそ統一食口だ。外的なものは内的に、内的なものはより霊的に、神秘的に受け取るべきだ。今回のことが偶発的なものでは決してなく、私達の内的霊的な本質への目覚めを促され、身をとして働きかけられる御父様であることをわかって応えるべきだ。