2012年8月20日月曜日
今日の想い 442
私がより自由を得たと言えるのは、言葉の概念を正しく受け取り、観を新しく広げた時だ。人は自分という存在について、多くを理解して生きてはいない。わからないままで生きている。わからないまま生きていれば、私は私の人生を何かに操られていることになる。操られていれば、操られているだけ私の人生は自由圏にはない。私は言葉の概念を知って積み重ねることで私の自由領域を広げることができる。間違った言葉の理解で操られていた私は何かに拘束されていて、自由か拘束かは、私が言葉の概念を正しく受け取っているかどうかによっている。第一祝福の個性完成は愛に於ける完全自由人を指して言う言葉だろう。愛に関して自他の壁がなく、私を愛するように他も愛する。それは神様との壁もなく、神様は私を愛し私は神様を愛する。真の愛という言葉の概念を正しく受け取り、私が第二の神様の位置で愛の主管主の位置に立つ。それが愛に於ける完全自由人だ。人間は堕落して無知に陥った。内的無知であり外的無知だ。愛の何たるかを知らずに、偽りの愛が私の存在の動機であり出発点になってしまった。御父様が平和の主人、血統の主人のみ言葉で語られているように、私達は習慣性を中心として生きている。昨日の続きが今日であり、今日の続きが明日だと、習慣性を中心として思っている。一秒で転換しているという事実がわからない。時間概念、空間概念が御父様のそれとは異なるということだろう。習慣性を中心として生きているように、(真の)愛から始まって全ての言葉の正しい概念を受け取れず、霊的な意味で言葉のひとつひとつを受け取れない。言葉は霊的なものだけれども地上的唯物的なものとしてしか受け取っていない。だから訓読会で御父様が語られる意味が殆どわかっていない。世間的に理解している東西南北と、御父様が口にされる東西南北とは異なる。世間的に理解している数と、御父様が口にされる数とは異なる。御父様は言葉を霊的な正しい概念で語っておられ、私達が御父様の言葉を理解する為には、言葉の地上的意味という枷を外して、霊的見地に立たないと理解できない。霊的言葉として、言葉の概念を正しく受け取り、私の自由領域を広げることが歓びだ。