2012年8月7日火曜日
子女に悩む親のひとりとして
み言葉を知りみ旨を受けた立場で、親となり子に対する時に、向かうべき方向性を子に指し示してそれから大きくずれなければ差ほど心労も少ないのだろうが、私の現実は理想家庭からはかけ離れていて、正直受け止めることが難しい。いつかは心を開いてくれる、わかってくれると信じてここまで希望を繋いできた。その兆しでも見えれば少しは安堵の吐息もつけるのだろうけれど、願いと現実の狭間でその余りにもギャップのある両方を支え持つのは息も出来ないほど苦しい。一方を捨ててどちらかにおもねることができればどれ程楽になるだろうと何度思ったことか。しかしみ言葉を否定しみ旨を捨てることができるはずもなく、勿論一方で子供を捨てることができるはずもない。私のような食口がどれほどいるかはわからないが、二世として祝福を受ける数字を見る限り、かなりの祝福家庭が同じ状況にあると思う。親の責任であることは重々承知だけれども、親がどれほど十字架を背負うとしても、現実が手のひらを返したように変わる訳でもない。一世である私はみ旨の道に向かう為にかつて親から離れ、二世である子供は今教会から離れる為に親から離れようとする。辻褄を合せるかのようなその反動的状況では新たな信仰観がどうしても必要になってくる。旧態の信仰観では行き着く先は裁きしか残らないだろう。子の親に対する裁き、責任を果たせない祝福家庭の親としてレッテルを貼られる裁き、或いはこんなに頑張ったのにという神様への裁き、更に周りの兄弟達の視線を裁きのようにも感じてしまうだろう。そこに愛はないし赦しもない。愛として差し出されたものでさえ裁きに受け取ってしまうかも知れない卑屈な状況だ。でもそこにも、愛は浸透されるはずだし赦しも訪ねてくる。そうなるだろうかと不安に思うのは私も同じだが、真の愛の必然としてそうならざるを得ない。殺人鬼をも祝福された御父様だ。最後の最後にそのカードを出して赦しを求めれば御父様も赦さざるを得ない。だからどんな状態であれ赦しは確約され最終的に親子として天国に共に入っていく。しかし問題は今の私の観念、信仰観だ。過去の信仰観と決別し、真の愛と言えるに相応しい信仰観と愛する意志としての実体的歩みを求められている。過去は、愛と言いながら条件的であり、赦しと言いながら律法的だった。教会がそうだと言うのではなく私の意識がそうだった。数字を達成すれば認められ、形だけ整えれば良しとされると思った。しかし子供に真摯に向き合えば愛の実質を問われ、赦し赦されることの痛みも覚える。私達の財産はどれだけ愛の為に涙を流したかであり、愛の切なさを味わったかだ、というみ言葉は、私は思うようにならない自分の子を前に置いた今でこそ実践していることになる。涙が絶えず、切なさで胸が痛い。或る意味、子供が思うようにならないからこそ愛が愛として成り立つ。子供は親の思うようにはならない役目を、家庭に愛を湧き出させ満たせる為に務めているとも言える。これが私の真の愛への道なのだろう。