2012年8月10日金曜日
意識構造
霊界に関しては様々なみ言葉があるが、私達の意識構造をもって処理できる可能圏が霊界だ、と説明されるみ言葉は、科学的論理的な思考人間に取って霊界への関心を誘い、霊界の認識を開くことができると示唆されている。しかし思考人間もどこまでも突き詰めて思考する者は少なく、簡単な例を言えば、分子は原子から、原子は素粒子からと学んだことをそのまま鵜呑みにして、鵜呑みにした事実とされる事柄を何の疑いもなく基底に置いて思考を構築していく。進化論もそうだし、宇宙の起源の説明でも同じことだ。鵜呑みにしたものは本人に取っては非常に抽象的であり曖昧なものだが、そこにメスを入れようとする本当の科学的論理的思考人間は殆どいない。ビッグバン理論を多くの者は受け入れているようだが、ではビッグバンがどうして起こったのか、その原因(起源)は解かっていない。宇宙形成の経過で、宇宙の霧が発生して霧が掻き混ぜられて今の太陽系銀河系ができたとするなら、宇宙の霧はどうして発生したのか、掻き混ぜた存在は何なのかと言った問いが出てくるが、そこまで深く掘り下げようとはしない。私達の通常意識の中に、抽象的で曖昧であって良しとされるものが既に組み込まれてしまっている。ようするに意識を問うのではなく、意識を組み立てている構造を問わなければならない。私達は神様を信じ霊界を信じているけれども、その認識をもたらした私達の意識は通常の意識構造と変わらない。しかし霊界への本当の認識を処理できる可能圏には、通常の意識構造による意識では入って行けない。私達の意識と御父様の意識とはその構造が違うことをはっきり知らなければならない。御父様と同じ意識構造で始めて正しく霊界が認識されるのであり、通常の意識で霊を見ただとか、啓示が降りただとかと言うのは、それをそのまま霊界の事実として捉えるのは間違いであり危険でもある。私達がこの、意識ではなく意識構造に手をつけようとする為には、意識を超えた神秘的領域(宗教的領域)に入っていかなければならない。意識が何かと問うなら、世界を移す鏡が意識だと私は思っている。外的世界を映す鏡であり、内的世界を映す鏡だ。外的世界に関して言えばその形状や色彩、触感や香り、音やリズムといった五感で受け取れるもののみを映しているけれども、それらの外的表象の背後にある霊的本質を映せない鏡であり、内的世界に関して言えば私の心魂の活動、思考や感情や意志衝動といったものは映すけれども、その心魂活動の背後にある霊的本質を映せない鏡だ。外的世界の背後に存在する霊的本質、内的世界の深みに働く霊的本質、そこに踏み込める意識構造とは、見えない本質の正体をつかもうとする断固とした意志を備えた意識だと私は思っている。断固とした意志は、見えない本質が存在すると信じる信仰が問われ、その信仰をもってして諦めずに求め続けると、或る時、目が開く瞬間が現れる。メシヤは意識に於いても革命をもたらす。意識革命に於いても信仰基台、実体基台が必要で、それが備わるとメシヤを迎えて意識革命がもたらされる。